名古屋大学医学部はこのほど、トヨタ自動車、中部品質管理協会と連携した新たな人財育成プロジェクト「明日の医療の質向上をリードする医師養成プログラム」(ASUISHI=あすいし)を立ち上げた。中堅以上の医師を対象として「患者安全」と「質管理」を習得させるのが狙い。履修期間は約6カ月で、第1期は今年10月に開講する。「熱意のある医師であれば、診療科目や地域は問わない」(名古屋大学医学部附属病院医療の質・安全管理部)。修了者は同大学から履修認定と、医療安全管理加算の要件となる「医療安全管理者研修修了証」を取得できる。これまでにも患者安全や質管理に着目した取り組みは試みられているが、産業界がここまで深く関わるのは極めて珍しい。プロジェクトリーダーを務める安田あゆ子医師に立ち上げの狙いや意義などを聞いた。
医師養成とネットワークづくり柱に
ASUISHIは「明日の医療の質向上をリードする医師養成事業」「人財ハブセンター事業」の二つの柱で構成される。前者は患者安全を名大病院の医療基盤部門(医療の質・安全管理部、中央感染制御部、メディカルITセンター、先端医療・臨床研究支援センター、卒後臨床研修・キャリア形成支援センターなど)が、質管理をトヨタグループと中部品質管理協会がそれぞれ担う。
「国内屈指の患者安全体制を誇る名大病院における実習と世界最高水準の品質管理手法を有するトヨタグループが手を組むことで実効性のある患者安全や医療の質の向上を図ることができる」(同)と期待されている。
後者は履修者を中心とするネットワークづくりが狙い。履修者の所属する医療機関の安全管理・感染制御部門をつなぐことで、質的向上の取り組みを全国に広げる。受講中ばかりでなく、履修認定取得以降に業務支援や合同の検討会などを行い、継続的に能力向上を支援する。
ネットワーク構築の前提となる「医師養成事業」はメイン(定員10人程度)、患者安全インテンシブ(同2人程度)、感染制御インテンシブ(同3人程度)の3コースを用意。総履修期間はメインコースが約120~140時間、患者安全、感染制御の両インテンシブコースが約40時間。受講費用は無料(テキスト、パソコンなどの実費、旅費、宿泊費を除く)だ。
選考基準は(1)プログラムを6カ月で修了できる業務環境を所属医療機関で整えられていること(2)修了後、所属医療機関で安全管理・感染制御・質管理業務に主体的に従事できること(3)修了後、中長期的に所属医療機関として人財ハブセンター事業に参画できること(4)各機関からの参画は原則的に各期につき1人とすること(5)所属医療機関の推薦を得ていること――などである。
不具合が生じたときに止める勇気
このプログラムが目指すのは「臨床を熟知し、現場の多様な課題を粘り強く解決する能力に長け、質管理の視点やスキルを併せ持つ医師の養成」である。
すでに触れたように、これまでの医療界では患者安全や医療の質向上の必要性が叫ばれながら、多くの病院でそうした対応が立ち後れていたのが実情。その意味で、今回の取り組みには専門性とマネジメント力に狙いを定めた学びの機会を追求する側面がある。
ASUISHIは2014年度の「文部科学省大学改革推進等補助金・課題解決型高度医療人材養成プログラム」の「医療安全部門」への応募をきっかけとして生まれた。26大学が競い合う中、東京医科歯科大学と共に選ばれたのが産業界との連携による実践的な効果を掲げた名大案であった。募集テーマで謳われている「課題解決」に対して名大はこれまでの看護師主体の医療安全や質追求とは一線を画する中堅医師の養成を前面に打ち出した。産業界の中でも地元を代表するトヨタグループと手を組む「地の利」を最大限に訴えた。
先行きのカリキュラムでは、例えば、メインコースの場合、約40時間のweb型講義のほか延べ約30日間の参加型研修がある。そのハイライトは実際に製造現場などに赴いて学ぶトヨタの品質管理手法であろう。
今日のトヨタ生産方式(Toyota Production System:TPS)の源流は豊田佐吉が発案した「豊田G型自動織機」にある。この織機の大きな特徴は布を織る糸が切れると機械が止まる仕組みを組み込んでいたことだ。この機構は「ジャスト・イン・タイム」と共にTPSを支える「自働化」へと発展した。自働化の要点は不良品を作らせないよう、異常があればラインが止まることである。機械が止まれば無用の不良品は物理的に作られないからだ。
「悪い製品は作らない。万一できてしまったら直ちに検出し、機械を止める」という佐吉の設計思想こそ自働化の起源である。この理念が後世のトヨタの品質保証の原点となっている。
この考えを、医療現場に持ち込み、例えば、検査は適切か、手術は必要かなどを検討し、その判断次第で手術を取り止めれば医療事故を未然に防ぐのに役立つ場合もある。まさに、製造工程で不具合が生じたときに機械を止める勇気に通じる。ASUISHIが目指すのはそうした判断ができる医師の養成である。
製造業のノウハウを医療現場に
「人は誰でも間違えるという視点で始まったインシデントレポーティングシステムが事故の再発防止を促した面はあります。しかし、事の大小を問わず『起こったら手を打つ』という増改築的な対応は後ろ向きではないかと常々感じていました」。安田医師はASUISHIに取り組むことになったいきさつをそう振り返る。呼吸器外科医のかたわら、医療安全に取り組んできた経験から、安田医師は産業界における品質管理の考え方が医療分野にも応用できるのではないかと考えた。
実際、TPSはトヨタばかりでなく、半ば標準的な品質管理手法として海を渡り、米国の産業界に浸透した。その評価は産業の枠を超え、現地の医療分野にも取り入れられた。そうした動きは2000年ごろ日本にも伝わる。患者安全学を学んでいた安田医師は当時の有益な文献のほとんどが英文であることに戸惑いを覚えた。
「もともと日本発想の考え方なのだから日本語で一から学びたいと思ったのです」。旺盛な好奇心はTPSの総本山であるトヨタとそのグループ会社、品質管理向上のために実践的な研修などを行っている中部品質管理協会などに人脈を広げた。異業種の研修会や製造現場に何度も足を運んで安田医師は「産業界から学ぶべき点は実に多い。質管理という視点では、クルマも人も同じ」と確信する。産業界のノウハウを直接医療現場にという考え方は次第に固まり、ASUISHIの原形へと形を整えていった。
次代担う医療安全の専門家を養成
WHOが11年にまとめた『患者安全カリキュラムガイド』はトピック7で「患者安全には他産業で育まれた品質管理の方法論を導入すること」を推奨している。その点、わが国の製造現場には世界最高水準といわれる品質管理手法が存在する。それに伴う人材育成も成果を挙げている。ASUISHIの取り組みは本格的な質管理手法を活用し、科学的、システム包括的な方法論で解決策を実践、モニターし続けることを通じて医療事故を減らすための教育的な試みである。
「今最も求められているのは役に立つ質管理の考え方です。だからこそ、質と医療安全とを一体化させなければならないと強く思います。例えば、プログラムの中で扱う感染制御は医療安全の一部と考えられます。ですから、感染制御のサーベイランスなどを実のあるものにするためにも質管理の考え方は不可欠なのです。ところが、クルマの品質管理と医療のそれとは違うとか、製造業の手法は馴染まないという声が多いのも事実。だからこそ、文字通り明日につながる医療安全を担う専門家の養成と継続的な支援に力を入れたいですね」(安田医師)。
e-learningなどで受講者の便宜図る
ASUISHIでは患者安全、感染制御、質管理に関する最先端の知識習得ばかりでなく、医療の質・安全管理部や中央感染制御部におけるOJT、トヨタグループとの情報交換や学び、中部品質管理協会での研修、異業種間交流、他院からの受講者との交流、討議なども盛り込み、マネジメントに必要な能力の開発にも注力する。
開講後は、忙しかったり遠隔地に住んでいたりする受講者が少ない負担で履修できるよう、e-learningシステムやweb会議などを積極的に活用する方針。長時間勤務ができない、短期休業中などといった事情を抱える医師も受講できるように配慮した。修了者は得られた専門性を有用なサブスペシャリティーの一つとして自らのキャリア形成に活かすこともできる。
「履修者の所属医療機関をつなぐ人財ハブセンター事業は患者安全領域における新たな連携体制として意義深いと思います。ASUISHIで学んだ人がそれぞれの所属医療機関に帰って地域でポリシーを広めれば、学びの共同体を形成することができます」。安田医師はASUISHIを通じた人財交流や地域連携の広がりに期待を寄せる。
「受講者一人ひとりは個人的な学びと捉えるかもしれませんが、実はさまざまな考えの人が集合することで生まれる効果もあるはずです。それをどう導き、整理していくかは本格稼働後の課題です。TPSをベースにしているだけに、プログラム自体をカイゼンできる形にもしたいですね」(同)。
「事故は起こる」で踏み出す第一歩
10月5日に開講する第1期の募集は6月1日に始まった。「養成のためのプログラムというと教え込むというイメージが強いけれども、実態は製造業の手法を翻訳することにより応用力を鍛えるという授業になるはず。このプロジェクトのトヨタの窓口はカイゼンを司る最前線ともいえるTQM推進部ですから深い哲学にあふれています。そこで、翻訳にあたっても2015年の現場感を2015年の医療に時差なく役立てたいと考えています」。製造現場に根差す安田医師のスタンスはあくまでも実践的だ。
「医療安全に関わるようになった日々を振り返ると、この10年で『医療事故は起こるもの』という意識が医療施設と役所にはありますが、患者と一般マスコミにはありません。ですから、まずこのことをさまざまな形で訴えていく必要があると痛感しています。しかし、単独の施設だと誤解されたり、ある種の風評被害を受けたりする恐れがあります。だからこそ、全国の関連機関が一緒にデータを集めて分析していく意義がある。ASUISHIの第二の事業である人財ハブセンターの大きな柱でもあります」
子供だましでない体制で臨む
前述のように、ASUISHIでは修了者に医療安全管理者研修修了証を発行する。向学心や向上心に燃えながら、管理者研修制度の機会が用意されていない施設の受講者にはやりがいのあるプログラムであるといえよう。
「大学という『育』のプロ機関なので必要なスキルを身に付けてもらうのも使命。このため、子供だましでない、きちんとした成人教育の場として受講者の満足度を高めることにも心を砕きたいと思います」(同)。
医療と製造業が本格的に連携するわが国で初めての医師養成プロジェクト、ASUISHIのキックオフシンポジウムは9月27日10時から13時まで名大病院中央診療棟3階講堂で開かれる。
プロフィール
安田あゆ子(やすだ・あゆこ)氏略歴
1996年名古屋大学医学部卒業。スーパーローテート研修後、胸部外科医として勤務。研究留学を経て、2006年から東海北陸厚生局に出向するかたわら、名古屋医療センター呼吸器外科に勤務。11年名大附属病院に復帰し、医療の質・安全管理部副部長着任。15年10月開講する「ASUISHI」プロジェクトのリーダーでもある。1971年、愛知県生まれ。
連絡先:名古屋大学医学部附属病院 ASUISHIプロジェクト推進室
名古屋市昭和区鶴舞町65
TEL/FAX:052-741-2111(代表)内線5251
URL:www.asuishi.med.nagoya-u.ac.jp/