東日本大震災後、日本中の医療施設は地震時のリスクマネジメントを見直す必要がでてきました。地震対策を日頃から行っていても、実際にその対策は機能するのでしょうか。
先の震災で被災した体外受精や顕微授精に特化したクリニックではどのように対応したのでしょうか。μ㎜単位のヒトの胚を扱うART(※)の現場で混乱はなかったか、2011年9月9日(金)、標記学会総会・学術講演会において行われたワークショップ「ARTを取り巻くリスクマネジメント」座長:田中 温氏(セントマザー産婦人科医院)、峯岸 敬氏(群馬大学大学院医学系研究科産科婦人科学)でその報告がありました。
このワークショップは、震災対策に加えて2008年に起きた取り違い事故(参照;『第73回:生殖補助医療の現場における安全管理とは?』)から3年が経ち、現在ART施設での精子や胚の取り違い防止対策はどのように行われているか、との2つがテーマでした。
まず座長の田中氏より総括的な話として「1.Overview:ラボの品質管理体制の在り方」、から始まり、東北大震災で被災した2つのクリニックからの報告、「2. 震災経験からみたリスクマネジメントの在り方、中條友紀子氏(京野アートクリニック)」、「3. 震災による長期停電の影響と今後の課題、菊地 裕幸氏(吉田レディースクリニックARTセンター)」、そして、胚の取り違い防止策として「4. ICチップによる培養確認管理機構の構築、林 輝明氏(新橋夢クリニック)」、「5. エラーチェック業務管理システムの今後の課題、臼田 三郎氏(うすだレディースクリニック)」の講演がありました。
※ART:生殖医療技術 (Assisted Reproductive Technology) 体外受精や顕微授精を指す。
1.Overview:ラボの品質管理体制の在り方、田中 温 (セントマザー産婦人科医院)
医療の質を向上させるには、リスクマネジメントが不可欠です。そのためには、設備機器の整備などのハード面、医療従事者の能力、組織の体制整備などソフト面のリスクマネジメントを構造的に確立することが重要です。
当院においてハード面のリスクマネジメントは、防災対策、つまり火災のときはどこに患者さんを誘導するか、防火シャッターの確認、階段をどう下りるか、停電対策などを、火災や地震を想定しながら年に1回は訓練を行っています。
組織の整備は、内部で切磋琢磨することが大事と考え、内部監査を厳しく行っています。各セクションにリーダーを決めて、お互いのセクションを厳しく細かく監査しています。これはISOとほとんど同じ内容です。ISOを受けるのもひとつの方法ですが、ARTの技術は日進月歩なので、(ISOの評価項目が現状に追いつかないこともあり)できれば内部で監査したいと考えています。
内部監査に加えて客観的に外部評価する必要もあります。できれば同じようなART専門施設の医師、看護師、患者さん他によって組織された外部機関に評価していただきたいです。
いくら対策を講じマネジメントしても不可能なことはあります。特に人知を越えた災害が起こってしまったら(我々のできることに)限界があります。ARTにはリスクがあるということを患者さんに治療に入る前に同意してもらうことも重要です。
ARTのリスクマネジメントとして、精子、胚の取違い防止策も大きな要素です。当院では職種の違う5人のチェッカーがチェックを行わないと一切の受精や移植など操作ができない体制になっています。チェッカーの5人は院長と同じ権限を持っています。このようにダブルチェック体制を厳重にしていますが、それでもときどきチェックがもれてしまいヒヤリハットの報告がでてきてしまいます。ヒヤリハットの報告と問題提起はほとんどのスタッフができますが、それと同時に解決策を提示できるスタッフを育てることが今後の課題です。
ハードソフトを両方において二重三重のチェックを自分たちで行い、リスクマネジメントを細かく行っていく。そして外部監査を受けて、自分たちの施設を守っていく。
この体制がリスクマネジメントの根幹と考えます。
リスクマネジメントの考え
- ART医療の進歩と医療安全の両立は、「医療の質の保証」が必要不可欠である。
- リスクマネジメントの考え方は、「医療の質と保証」と密接な関係にある。
2. 震災経験からみたリスクマネジメントの在り方、中條 友紀子(京野アートクリニック)
当クリニックは不妊治療専門のクリニックで、地上20階建ての仙台駅前にあるビルの3階に診療スペースがあります。1997年3月に竣工、耐震構造の建物です。
震災前から宮城県沖地震が起こる可能性が高いとされていたので、当クリニックでは、大地震を念頭において、防災マニュアルの作成、消防非難訓練の実施、ラジオや懐中電灯などの備品、地震対策としてインキュベーターやガスボンベの固定、凍結タンクの収納、自家発電の設置などをしていました。
仙台では3月11日、4月7日に震度6弱の地震が起きました。当クリニックでは3月11日の地震直後から停電になり、自家発電装置が作動しました。断水にはなりませんでした。
地震が起きた時間は20人分の患者の胚をインキュベーター内で培養していたときでした。扉を開けるとインキュベーター内の加湿器の水がこぼれ、培養ディッシュは水で濡れていましたが、ディッシュがひっくり返ることはなく、胚はすべて無事でした。地震直後はビルから避難命令が出たので、スタッフ全員いったん外に出ましたが、1時間半後に解除になり、クリニックに戻り、自家発電力を用いて胚の凍結を試みました。しかしその最中にも震度3の余震が続き、凍結は断念せざるを得なくなりました。そのため培養を続け、翌朝、余震が落ち着いたところを見計らって全胚を無事に凍結することができました。地震のときは採精室にも患者さんがいました。
震災後3日間は休診とし、4日後から診療時間は短いものの胚移植を含め治療を再開。4月からは通常診療を行っています。
地震時の反省点としては、メーカーも被災するなど培養液ほか物流供給が止まってしまったので、平常時から2週間分のストックを備えておくことにしました。
また当クリニックに設置している自家発電装置は防災ディーゼル発電機(ヤンマーAP80A 定格出力80KVA)です。50リットルの軽油で6時間が稼働できます。当ビルでは予備の軽油の保管が認められていないのですが、なんとか停電中に3度、外部から運んで供給することができました。今後はスタッフの自宅に軽油を確保することを検討しています。それと年1回は必ず稼働チェックしていますが、今までは業者にやってもらっていたので、震災を契機に自家発電の操作はマニュアルを見るなどしてスタッフ全員ができるようになりました。
震災時のシフトも決めました。当院は年中無休で診療しています。震災時は全員が出勤するとその後のシフトに影響がでるので震災時には3名の出勤体制としました。
震災時、責任者が不在のこともあるし、またマニュアルが機能しないことも想定できるので、誰でも状況に合わせて自分で判断し適切に行動できるように行動基準を作りました。冷静に、やらなければならないことをやればよいだけ、とすることに主眼をおきました。これは今回、特に重要だと感じたことです。それと同時に決定機関となれるスタッフを決めました。
クリニック全体としては、被害を最小限にするために、適切に動けるために、なるべく早く立ち直るためにこれからも年に1度の防災訓練で細かくシミュレーションしていきます。
みなさまからの救援物資、温かいメッセージをありがとうございました。当院の経験がみなさまの施設でも生かせれば幸いです。
3. 震災による長期停電の影響と今後の課題、菊地 裕幸 (吉田レディースクリニックARTセンター)
当ARTセンターは2007年に吉田レディースクリニック(産婦人科)に増設されました。スタッフ総勢60名、当院は地方にあるため培養士6名は全員が車を所有しており、かつ半数は3㎞以内に住んでいます。
設立時より宮城県沖地震が高率で発生することを想定し、培養室全体の電力が補える自家発電装置の2ヶ月ごとの稼働点検、インキュベーターの固定等の対策を行っていました。しかし予想をはるかに超える規模の揺れ、大津波により、電気・ガス・水道・交通機関はすべて途絶えてしまいました。当院は仙台市中心部より離れているため電気復旧には5日間がかかりましたが、電話やインターネットなどの接続はさらに時間を要し、すべてが復旧するまで1ヶ月以上かかりました。
地震当日の午前中にも採卵がありました。地震直前の10分前にICSI(顕微授精)がちょうど終わったところでした。地震直後はスタッフも患者も屋外避難。そのときインキュベーターは扉が開きかけ、中で加湿用の水がこぼれ、胚の入ったシャーレはインキュベーター内で移動していましたが、胚の紛失はありませんでした。しかし、自家発電の維持には大量の軽油が必要となり、本館(病棟)を優先するために、やむを得ずARTセンターを一時閉鎖としました。ARTセンターの自家発電を停止する前に、緊急対応として胚の凍結保存を行いましたが、当日は余震が10分ごとに頻発し、胚の観察・操作は不可能と判断し、翌日まで培養を継続した後に行いました。自家発電停止後は、病棟、スタッフ宅で薬剤や培養液を保管しました。当院スタッフ2名の自宅が流されるほか、食料の調達、スタッフの勤務さえ困難な状態が続き、勤務者確保のためにスタッフがガソリンスタンドに長時間並んでガソリン確保に努めました。採卵再開までは1ヶ月を要しました。
当院で実際に起こったトラブルや対応策、そこから学んだポイントを以下にまとめました。今後、危機管理対策の参考にしていただければ幸いです。
- 患者やスタッフ、操作培養中の胚の安全を図るための対策
- 夜間に発生した場合のスタッフ対策
- 自家発電装置の定期点検と、稼働に必要な燃料の確保や使用時間の把握
- 緊急対応として凍結保存を行う場合の、凍結キットの備蓄や凍結基準の設定
- 凍結保存物を維持するための液体窒素の備蓄
- ライフライン等、被害規模や範囲などの早急な現状把握
- 物流が停止することを想定した、機器部品や培養液等の対策
- 患者への連絡、問い合わせ方法や説明
4. ICチップによる培養確認管理機構の構築、林 輝明 (新橋夢クリニック)
当院では開院以来、患者の取り違い事故防止のため電子情報化を進めています。電子カルテをはじめ、患者情報、院内検体検査オーダーリング(※1)、採卵から胚の培養を行う培養情報管理システムなどを連動させて運用しています。入力された情報や画像情報はデーターサーバーで一元管理し、万が一メインのサーバーがダウンしてもミラーシステム(※2)により30分以内に復旧することができます。電子情報化により、入力情報を瞬時に複数の端末で各部署が同時に見て業務ができるため、紙のカルテを探したり運ぶ手間が省けるなど正確で迅速な情報伝達が可能であると同時に医療過誤の防止にもなっています。
しかし何重もの安全網をかけていても患者取り違いの危険性はゼロではありません。日本産婦人科学会が出している生殖医療に係る安全管理に関する留意事項の一つに、「体外での配偶子・受精卵の操作にあたっては、安全確保の観点から必ずダブルチェックを行う体制を構築すること。」とあります。職員2人で行うダブルチェックは、誤認を減らすために重要です。しかし人は精神的負荷、身体的負荷の増大とともに誤認をするようになり、ダブルチェックといえども限界があります。そこで誤記入、貼り間違い、読み間違いを一掃する新たな確認管理媒体が必要と考え、当院ではICチップを導入しました。これは患者個人と培養容器、凍結容器に収容された胚、精子とを直接繋ぐ唯一の媒体です。
"人は誤認するもの"という前提に立った次世代の確認管理機構を当院の実地検証に基づいて、このシステムを開発、現在運用しています。
システム導入前後に胚の培養成績には大きな変化はありませんでした。この管理システムを運用してからまだ日が浅いので今後も動向を観察していきたいと思っています。
現在はICタグでの管理は培養中の胚の確認のみに留まっています。今後の課題としては、
- 精子の調製や媒精子の確認
- 凍結胚や凍結精子の管理
- 凍結融解を経ても機能する凍結保存できるICチップ搭載の凍結保存容器の開発
と、採卵から移植までの確認管理をそれぞれの機能が区切られることなく一貫して操作することができるシームレスを目標にしていきます。
それと同時に確認管理のシステムに頼りすぎることがないよう、人の目がおろそかにならないように、スタッフの教育や体制も作り上げて整えていきたいです。
※1 検体検査、生理検査、放射線、処方、投薬などの各種オーダ情報を情報端末から入力して各部門に伝達するシステム。 電子カルテにオーダリングシステムの機能をもたせたり、電子カルテとオーダリングシステムを併用してシステムの統合化を図ることができる。
※2 ミラーサーバーとは、あるサーバーと全く同じデータやアクセス権を複製として持つサーバーのこと。サーバーがシステム異常をきたした際に処理を肩代わりし、処理を停滞させないために用意する。システム全体が二重化するので、安全性も向上する。
5. エラーチェック業務管理システムの今後の課題、臼田 三郎 (うすだレディースクリニック)
当院は、他の施設と同様に、ARTラボ業務における配偶子・受精卵の取り扱いを細かくマニュアル化し、作業時は全ての行程において実施者・確認者が目で確認し声を出しダブルチェックをしています。そして実施者の名前を記録に残すことで責任の所在を明確にしています。
ただ、あくまで人の行為なので、慣れが生じてくると流れ作業的になり、可能性は低くてもいつか取り返しのつかない医療過誤が起きないとも限りません。そのため確実に取り違いのないシステムを目指して、人の目によるダブルチェックに加えて、平成21年7月にコンピューターによる照合確認が可能なART取り違い防止システムを導入しました。
旭テクネイオン社が開発したこのART 取り違い防止システムは、患者氏名、診察番号、バーコード、2次元コードが記載されたリストバンド、ラベルとハンディリーダーを用いてコンピューターが照合していくシステムです。採卵、精子調整、媒精、顕微授精、胚移植、胚凍結、胚融解、ほぼ全ての行程で照合が必要とされ、もし情報に不適合、省略があれば次の作業に進めないシステムになっています。作業の履歴も全て残るので、実施者、確認者にとっても緊張感があると思います。導入当初は操作性を危惧していました。操作が煩雑であればかえってミスが生じやすくなり、配偶子・受精卵の入ったディッシュ等の転倒や落下、培養環境への悪影響等が起きるのではないかと懸念していましたが、実際に使ってみると比較的簡便で、スタッフ全員が数回のシミュレーションで使用法を習得できました。バーコードを貼り付ける悪影響はありません。ただしダブルチェックは基本なので、機械に頼り過ぎることないようにスタッフの教育はきちんと行っています。
今後の課題としては、
- このシステムの培養環境への影響に関する科学データが不足しているので集めていくこと。
- 行程の中で細かい部分で一部目視・声出しによるダブルチェックだけに頼る部分があるのでそれもシステムに組み入れること。
- ラベルを貼る際のちょっとしたミスでディッシュの転倒等が起きないようにすること。
- 慣れて来たときにこのシステムに頼りすぎて肝心の目視・声出しによるダブルチェックがおろそかにならないようにすること
等が挙げられます。今後もよりよいチェック機能の発展について考えていきたいと思います。