近年アメリカで注目をされはじめた医療安全を推進するためのフレームワーク(枠組み)がある。国防省がAHRQ(Agency for Healthcare Research and Quality;医療品質研究調査機構)と協力して、医療におけるチームパフォーマンスを向上するために、エビデンスに基づいて開発した。もちろん目的は患者のアウトカム(目標とする治療結果)を最適にすること。それが「TeamSTEPPS」(チームステップス)だ。軍の病院などでTeamSTEPPSを導入し、医療安全の推進・質の向上に成果を挙げていると言われている。最終的には安全文化の醸成を目的とするこのフレームワークはどのようなものなのか。
TeamSTEPPSの指導者養成コースを修了し、日本人として唯一のマスタートレーナーである国立保健医療科学院の種田憲一郎氏にTeamSTEPPSについてお話を伺った。
種田憲一郎氏(写真中)
TeamSTEPPSをコーディネートされている方々と一緒に。
左はDeborah A. Milne, R.N. MPASenior Research Scientist
American Institutes for Research、右はJohn Courtney, MBA
Senior Healthcare Analyst
Department of Defense Patient Safety Program
Office Of The Chief Medical Officer, TRICARE Management Activity
コミュニケーション~脳内出血を起こした妊婦の受入拒否
「2008年10月、脳出血を起こして緊急搬送先を探していた東京都内の妊婦(36)が、7つの医療機関に受け入れを拒否され、出産後に死亡したできごとがありました。最初に受け入れ要請をされたA病院が、妊婦が7つの医療機関に拒否された後、再び要請されて最後に患者を受け入れました。その病院は初めに受け入れを拒否した理由について『当初、脳出血を疑う説明はなかった』としています。妊婦のかかりつけ医から連絡があり、吐き気があるということなので、感染症ならば受け入れ体制が整っていない、という理由で断ったそうです。同じく受け入れを断ったD病院も『感染症を疑った。個室がないので断った』と説明しています。しかし受け入れを要請した妊婦のかかりつけ医は『激しい頭痛のあることを伝えていた』と脳疾患の可能性を示唆したと反論しました。初めからA病院に頭痛があることを伝えていたかどうかは新聞報道からだけでは分かりませんが、感染症を疑われてしまったという事実には変わりありません。多くの医療事故でも原因の一つとして取り上げられるコミュニケーションのあり方ですが、このできごとを見ても大きな課題があることを示しており、その典型的な事例だと考えられます。このコミュニケーションの課題に取り組んでいかない限り、救急患者の受け入れ先を増やしても、必ずしもよい解決にはつながらないのではないかと感じています。」
受け入れられなかった理由
病院 | 拒否理由 |
A病院 | 当日は1人当直であったこと等。 |
B医療センター | 母体胎児集中治療室が満床。 |
C病院 | 新生児集中治療室が満床。 |
D病院 | 感染症を疑ったが、個室が満床。 |
E医院 | 産科・婦人科病床が満床。当直医が二人とも分娩対応中。 |
F病院 | 新生児集中治療室が満床。 |
G病院 | 新生児集中治療室を設置していない。 脳外科医の当直日ではなかった。 |
H病院 | 新生児集中治療室が満床。 |
(東京都福祉保険局「母体搬送事案に係る医療機関への調査について」より作成)
この事例のようにコミュニケーション不足により、不幸な結果に陥ってしまうことは残念ながら珍しくない。医療事故の主な原因は、コミュニケーション不足が圧倒的な1位である。JCAHO(現在のJoint Commission)(米国の評価機構)による警鐘事例3,548件の分析の結果、これらの事例の原因としてコミュニケーション(不足)、オリエンテーション/トレーニング、患者アセスメント(評価)、情報の利用などが挙げられている。
「このような事例のとき、伝える側(妊婦のかかりつけ医)が患者の状況・背景だけではなく、伝える側の評価・提案まで受け入れ側に説明していたら、『感染症疑い』による受け入れ拒否は防げたかもしれません。」
状況・背景・評価・提案(situation-background-assessment-recommendation)の頭文字を取ってSBARという。これはチーム医療を行う上でのトレーニングプログラムであるTeamSTEPPSで紹介されているツールの一つだ。
「SBARは元々米国海軍の潜水艇において重要な情報を迅速に伝える際に使い始めたと言われています。病院間の連絡、看護師やコメディカルが医師に説明するとき、医師同士などもこのSBARを念頭に置いて話すとよいでしょう。特に緊急時は冷静さを欠いたり、説明の時間を十分にとれないかもしれませんが、このSBARの内容だけを最低限、伝える必要があります。」
TeamSTEPPSは、軍隊におけるチームワークに関する研究をはじめとした、HROs(High-Reliability Organization;高信頼性組織)の20余年にわたるエビデンス等に基づいたチームトレーニングプログラムである。
「推測するに戦場ではチームが一丸となって戦い、チームとしてパフォーマンスを上げることが兵士の命に直結しており、そのためにチーム内およびチーム間のコミュニケーションが何より重要であるのだと思います。SBARをはじめとした軍隊で活用されているコミュニケーションスキルは、実践的なノウハウやエビデンスがあり、医療安全にも応用できるということで病院などで取り入れられてきたようです。医療もチーム医療であると言われています。チームのパフォーマンスを上げることやコミュニケーションが重要なことは軍と共通していますが、医療現場ではまだまだ職種個別の研修等が中心でチームとしてのトレーニングが実施されていないのが実情だと思います。そこで米国では対策の一つとして、医療人に向けて発信している国を挙げてのプログラムがTeamSTEPPSです。」
TeamSTEPPSは、Team Strategies and Tool to Enhance Performance and Patient Safetyの頭文字を取ったものだ。日本語に直訳すると「チームとしてのよりよい実践と患者安全を高めるためのツールと戦略」である。AHRQは、TeamSTEPPSの教材の開発に加えて指導者を養成している。教材の開発に携わった医師と種田氏が知り合いであったことをきっかけに、種田氏は米国での研修等を受けてマスタートレーナーとなり、現在国立保健医療科学院でTeamSTEPPSの日本語版翻訳をはじめ普及に努めている。
「TeamSTEPPSでは、チームのパフォーマンスを改善し、より安全なケアを提供し、組織の文化を変えていくために、4つのコアになるコンピテンシー(顕在化能力、業績直結能力)が必須だと提案しています。リーダーシップ、状況モニター、相互支援、コミュニケーションの4つです。」
TeamSTEPPSの4つのコアになるコンピテンシー
(Department of Defense (DoD) Patient Safety Program Agency for
Healthcare Research and Quality (AHRQ),邦訳:国立保健医療科学院
政策科学部 安全科学室」)
相互支援~一度無視されても2回は伝える努力を
TeamSTEPPSには、SBARのほかにツーチャレンジルールというツールがある。何か事柄を相手に伝えても、一度言ったところで気に留めてもらえないことがある。医療現場では、例えば看護師やコメディカルや研修医が医師に患者の容態などを伝えても軽く流されることがあるのではないだろうか。そのときに「一度言ったのであとは知らない」とするのではなく、ツーチャレンジ、すなわち2回は言おう、というルールに従ってもう一度医師に伝えるべき内容を伝える努力をするとよい(図)。医師も2回言われたという事実を真摯に受け止める必要がある。もし聞き入れてもらえなければ、他の人から医師に伝えてもらうようにする手段も必要かもしれない。なかなか医師に意見を伝えることが困難で勇気が必要な場合もあるかもしれないが、あきらめずに伝える努力をすることが重要だ。これはTeamSTEPPSの中でコアになるコンピテンシーの一つである、お互いに協力し合う「相互支援」のツールの一つだ。
ツーチャレンジルール
(Department of Defense (DoD) Patient Safety Program Agency for Healthcare Research and Quality (AHRQ))
状況モニター~自分自身の状況も把握
適切な判断・行動をするには患者の状況や現場の状況をモニター(継続的に把握)している必要がある。それと同時にチーム内の同僚と、もちろん自分自身の健康状態を含めた状況を理解しておくこともチームのパフォーマンス向上へとつながる。そしてこれらの状況をチームの全員が共通の理解・認識を持っていることが重要なのだ。
リーダーシップ
コミュニケーション、相互支援、状況モニターに加え、TeamSTEPPSで最も重要とする要素は、リーダーシップだ。特にリーダーシップを取る人物がいるかいないかで組織やチームのパフォーマンスは大きく左右される。
「医療安全の推進には、組織の安全文化を醸成することが不可欠です。安全文化の無いところで紹介したようなツールだけを導入しても決してうまくいかないと思います。例えば、SBARを導入した際に、間違ってもいいのでアセスメント(評価)とレコメンデーション(提案・要求)を言える環境がないと、結局、実践することは困難です。組織の安全文化を醸成するために、リーダーシップをはじめ、コミュニケーション、状況モニター、相互支援のコンピテンシーが必要だとも言えるでしょう。その中でもリーダーシップの存在がカギとなります。
もちろん『みんなで安全対策に取り組もう』という全員の意識向上が安全文化の醸成には不可欠ですが、その意識を創造し牽引していくのがリーダーです。
TeamSTEPPSにおいてリーダーとは、チームを編成かつリードし、明確な目標を定め、チームのメンバー間のオープンなコミュニケーションとチームワークを推進する人だと言われています。そうすることにより一人ひとりの能力が最大限に活用され、チームとしてのパフォーマンスを最大限に発揮できるのです。」
具体的にはリーダーには次のような役割が期待されている。
- ○
- 資源のマネジメント:チーム内で作業量の偏りがないように調整する。
- ○
- 委任:リーダーとして最も重要な役割の一つ。優先順位、必須業務の有無、活用できる資源の有無を考慮して、(1)何を(2)誰に―委任するのかを決定し、その際に(3)明確な目標・期待を示し(4)作業を進めていく中でフィードバックを求める。
- ○
- チームワークを推進するために、業務を進めていく上で、次の3つの短い打ち合わせをする。
(1)ブリーフィング:業務開始時に目的や役割などを確認。
(2)ハドル:業務途中で業務変更が必要か確認をしたり、発生した問題解決に向けて協議。
(3)ディブリーフィング:業務終了後に業務のプロセスと結果を改善に向けて評価。
これらのとき、チームメンバーが自由に発言できるようにする。 - ○
- コンフリクト(対立・衝突)の解決:なかなか難しいことであるが、チームの効率・パフォーマンスの向上に必要な役割。
「安全文化が醸成されるには、組織においてこれらリーダーシップとしての役割が発揮できているということが大きな要素です。」
安全文化の醸成とは 変革・改善へ抵抗のある職場の場合
安全文化の醸成、リーダーの存在、コミュニケーションの重要性は痛烈に理解できる。しかし理解はしていてもそれを現実に行うことが何よりも難しいのではないか。書籍を読んで知識を得たり、研修を受けて納得しても実際の現場はそう甘くはない。コミュニケーションが欠如するのは本人の資質や能力、それにやる気のなさが原因だろうか。資質や能力であれば教育すれば改善できる。個人のやる気も含めてチームのモチベーションを高め、リーダーを育てるにはどうしたらいいのか。安全文化の醸成を目指すモチベーションはどこから沸いてくるか。
「PDC(S)Aの概念はご存知の方も多いと思います。P=プラン、D=Do、C=チェック、(S=スタディ)、A=アクションです。計画を立て、実行し、その結果をチェック・評価し、次のアクション・改善に生かすという継続的な改善を進める考え方です。安全文化を醸成するさまざまなプランを実行・評価して改善し、再び改善のサイクルを繰り返し、うまく改善されたことは定着させていくことが重要です。一つひとつの取り組みを評価して積み重ねて築き上げていくことでしょう。
私達人間は危機感がないとなかなか変われません。良いことだと思っていてもなかなか行動に移せないことがしばしばあります。本来はない方がよいのですが医療事故などを契機に危機感を共有することが必要です。医療事故を改善への転機ととらえます。事故の起こった後に分析を行い、PDCAの概念を取り入れて、医療事故や医療過誤が起こりにくいような仕組みを継続的に検討するなど、安全文化を創る第一歩としてください。
先に紹介したTeamSTEPPSでは、危機感を共有し組織を改善へと導き、組織の安全文化を醸成する一つの方法として、ジョン・P・コッター氏による『Our Iceberg is Melting』(邦訳は『カモメになったペンギン』、藤原和博訳、ダイヤモンド社)を紹介しています。1時間弱くらいで読める寓話ですが、変革を進める8つのプロセスを端的に描いています。」
改革を成功に導く8ステップ
1 変革の準備と現状の打破
(1)真の危機感(切迫感)・問題意識を高め、そして十分な数の人々と共有する。
(2)改革推進のために使命感を持って取り組むメンバーでチームを結成する。
2 実施すべきことの決定
(3)目指すべき目標、変革のビジョンと戦略を明確にする。
3 新たな取り組みの導入・変革の実施
(4)ビジョンを浸透させ普及、周知徹底、共有する。
(5)ビジョンを実行に移す人々に権限を付与する、変革しやすい環境を整える。
(6)短期的な成果を計画的に生み出し、認知・評価(祝福)する。
(7)元の状態に後退したり、改革が停滞したりしないように継続してさらなる変革を生み出す。
4 改革の定着
(8)新たな仕組み・制度を定着させ、習慣化される新たな文化を醸成する。
「何かを変えていこうというとき、現状の少しの変化でも不安になるものです。変化や変革に抵抗を示すことは当然かもしれません。しかし着地点が見えて、安全安心に変わっていけるということが確約できれば変化を恐れることも少なくなります。 寓話の中ではペンギンのひな鳥までが変革に対して同じ意識を持つことにより、逆境での中で大きな力が動きます。やる気を起こし、改善していく仕組み作りに活用してください。」
参考
- AHRQホームページ
- TeamSTEPPSについて。英語。
- 米国国防省ホームページ
- TeamSTEPPSビデオ素材(事務局の環境では動画は重すぎて閲覧できませんでした)。英語。ビデオ素材については、現在種田氏が日本語訳を作成中。
取材:阿部 純子