札幌高等裁判所 昭和51年3月18日判決(判例時報820号36頁)
(争点)
- A医師のケーブル誤接続の可能性に対する認識ないしは認識の可能性の有無
- A医師のケーブル誤接続による傷害事故発生に対する予見可能性の程度
- 手術開始直前のケーブル接続について、執刀医であるA医師の介助看護師に対する信頼の当否
- A医師の負うべき刑法上の過失責任の有無
(事案)
被告人A医師は、国立H大学附属病院において外科医として勤務していた者であるが、動脈管開存症(注)患者(当時2歳半)の動脈管を大動脈との分岐点で切断する手術に際し、手術自体は成功したものの、手術に用いられた電気メス器の対極板付ケーブルのプラグとメス側ケーブルのプラグとを介助看護師Bが交互に誤接続したため、対極板を装着した患者の右下腿部に高周波電気が流れ、3度の熱傷を生じ、そのため下腿切断のやむなきに至った。
手術を行った医療チーム9名(執刀医1名、手術助手3名うち1名は指導医を兼ねる、麻酔医2名、介助看護師3名)のうち、電気メス器を使用した執刀医Aと電気メス器についてケーブルの接続・ダイヤルの調整にあたった介助看護師Bが起訴された。 1審の札幌地方裁判所は、看護師Bの過失を認めて有罪(業務上過失傷害罪、罰金5万円)、執刀医Aの過失を否定して無罪の判決を言い渡した。これに対して、看護師Bについては看護師側弁護人と、量刑不当を理由とする検察官双方が、執刀医Aについては検察官が控訴した(看護師Bについては、本判決によっていずれの控訴も棄却され、1審判決が維持された)。
(注)【動脈管開存症】 ドウミャクカンカイゾンショウ patent ductus arteriosus
動脈管は大動脈弓の内側で左鎖骨下動脈のほぼ対側に発し、肺動脈分岐部に流入する。胎児の動脈管は肺動脈幹と直結して太く、さらに胎児期は肺血管抵抗の方が末梢血管抵抗より高いため、胎児循環時の右室から駆出される血流量の90%は動脈管から下行大動脈に流入する。出生後は肺血管抵抗の減少、末梢血管抵抗増加、血圧上昇、左房圧上昇、卵円孔閉鎖とともに動脈管は約1ヵ月で閉鎖する。この動脈管が閉鎖せずに開存すると高圧の大動脈血流が肺動脈に流入し、肺血流量は体血流量の3倍以上にも達することがあり、肺血管抵抗の増大から肺高血圧症を起こすと逆短絡(右�左短絡)を生じることもある。乳児期にうっ血性心不全、発育不全、成人では細菌性心内膜炎(感染性心内膜炎)を起こしやすい。
出典:医学大辞典(株式会社南山堂)
(裁判所の判断)
A医師のケーブル誤接続の可能性に対する認識ないしは認識の可能性の有無
裁判所は、この点につき、A医師はケーブルの誤接続がありうることを認識しうる可能性はあったにせよ、現実にはその主張するように誤接続がありうることの具体的認識を持つまでには至らなかったものと認めるのが相当であると判示しました。
A医師のケーブル誤接続による傷害事故発生に対する予見可能性の程度
裁判所は、本件手術の執刀医であるA医師にとってケーブルの誤接続に起因する傷害事故の発生を予見しうる可能性は必ずしも高度のものではなく、当時の外科手術の執刀医一般についても同様であったと判示しました。
手術開始直前のケーブル接続について、執刀医であるA医師の介助看護師に対する信頼の当否
裁判所は、本件のような危険性の高い重大な手術の執刀医としては、手術遂行に万全を期する以上、執刀直前の時点において、患者の容態を最終的に確かめ、手術を誤りなく遂行するための手順・方法を確認し、術中に起こりうべき容態の急変、大出血、合併症等の突発事態に対処すべき方策を検討すると共に、執刀を目前にして精神の安定と注意の集中をはかる必要があり、その時点での有形的な作業の有無にかかわらず、手術自体以外の分野に注意を向ける精神的余裕は乏しかったものと認められると判示しました。
また、執刀医が注意を他に分散して精神の集中を妨げられる結果を来すことは手術遂行に及ぼす影響も懸念されるところで手術目的達成上好ましからぬことといわなければならないとも判示しました。更に、本件手術に際しケーブルの接続を担当した看護師Bは、電気手術器を使用する手術に対する介助の経験も積んでいたのであり、A医師も、看護師Bがベテランの看護師であることは承知していたこと、電気手術器のケーブルの接続は、看護師が担当してたやすく誤りを犯すとは容易に考えがたい種類の行為であること、それまで看護師のしたケーブルの接続が誤っていたため不慮の事故を起こした例は皆無であったことが明らかであると認定しました。その上で、経験を積んだ正規の看護師が共同作業につき自己の分担として、方法につき何ら医師の指示を要しない極めて単純容易で定型的な作業を行っていたという点は、看護師の当該作業に対する医師の信頼の当否を判断するうえに斟酌されるべき一事情たることを否定できないと判示しました。
A医師の負うべき刑法上の過失責任の有無
裁判所は、本件の場合、チームワークによる手術の執刀医として危険性の高い重大な手術を誤りなく遂行すべき任務を負わされたA医師が、その執刀直前の時点において、極めて単純容易な補助的作業に属する電気手術器のケーブルの接続に関し、経験を積んだベテランの看護師であるBの作業を信頼したのは当時の具体的状況に徴し無理からぬものであったことを否定できないと判示しました。
更に、医師の行為が刑法上の制裁に値する義務違反にあたるか否かは、当該専門医として通常用いるべき注意義務の違反があるか否かに帰着すべく、結局当該行為をめぐる具体的事情に照らして判定される外ないとも判示しました。そして、執刀医であるA医師にとって、ケーブルの誤接続のありうることについて具体的認識を欠いたことなどのため、右接続に起因する傷害事故発生の予見可能性が必ずしも高度のものではなく、手術開始直前に、ベテランの看護師であるBを信頼し接続の正否を点検しなかったことが当時の具体的状況のもとで無理からぬものであったことにかんがみれば、A医師がケーブルの誤接続による傷害事故発生を予見してこれを回避すべくケーブル接続の点検をする措置をとらなかったことをとらえ、執刀医として通常用いるべき注意義務の違反があったものということはできないと判示して、A医師の刑事上の過失責任を否定して業務上過失傷害罪につき無罪を言い渡した1審判決を維持して控訴を棄却しました。