大阪高等裁判所令和4年10月27日判決 医療判例解説106号(2023年10月号)129頁
(争点)
医師に血圧管理上の注意義務違反があったか否か
*以下、原告を◇、被告を△と表記する。
(事案)
◇(昭和45年生まれの男性・団体職員・症状固定日当時40歳)は、平成18年頃から、時々、右視野の欠損症状を自覚するようになり、平成21年(以後特段の断りのない限り同年のこととする。)7月15日、上記症状を訴えてW病院を受診し、検査及び診察を受けたところ、視野障害が認められ、その原因として脳機能に異常が生じている疑いがあるので、脳神経外科の専門医による検査及び診察を受けるよう勧められ、△独立行政法人が開設し、運営している医療センター(以下、「△病院」という。)の紹介を受けた。
◇は、7月16日、△病院の脳神経外科を受診し、MRI検査及びMRA検査を受けた。◇の診察を担当したA医師は、上記各検査の画像上、◇の頭部左側において中大脳動脈の閉塞、前大脳動脈及び後大脳動脈の狭窄、頭部右側において前大脳動脈及び中大脳動脈の狭窄の各所見を認めるとともに、左後頭葉の一部に脳梗塞の発症がうかがわれたことから、◇がもやもや病を発症し、脳梗塞も併発している疑いがあり、更に検査を行う必要があると考え、その旨伝え、◇は、同日、△病院に入院した。
A医師は、7月22日、◇及びその家族(◇の妻及び父母)に対し、入院以降に実施した各種検査の結果(MRI画像、脳灌流CT画像等)を示しながら、◇の頭部左側において主要な血管が閉塞ないし狭窄し、それによって脳内の血流が不足した状態にあり、それを補うべく「もやもやとした」微細な毛細血管群(異常血管網)が出現するという、もやもや病を発症している可能性が高く、左側後頭部には既に脳梗塞の併発が認められるところ、これを放置した場合、脳梗塞が悪化したり、これらの毛細血管が破裂等して脳出血を起こしたりする可能性があることから、これらを防止するには血行再建術により虚血状態を改善する必要があるとして、以後の予定については、脳血管造影検査により確定診断を経た上、できる限り早期に手術を実施することが望ましく、可能であれば、同月29日に手術を行うことを提案した。なお、頭部CT検査及び灌流CT検査の各画像によれば、病態の進行程度としては、脳出血の発症はないものの、左大脳半球の血流が右大脳半球の血流と比べて60%程度に低下した状態にあった。
A医師は、7月24日、◇に対し、脳血管造影検査を実施し、◇の病態はもやもや病であると確定診断した上、◇及びその家族に対し、その旨告知するとともに、もやもや病に対する手術方法としては、直接吻合法と間接吻合法があるところ、上記検査の画像上、閉塞した内頸動脈の周辺に直接吻合可能な血管が見当たらないことから、間接吻合術を選択するのが相当と考えられることなどを説明し、「手術に関する説明と同意書」(以下、「本件同意書」という。)を交付し、手術に同意する場合は、これに署名して提出するよう求めた。本件同意書には、「麻酔について」として「全身麻酔は麻酔専門医が行う。もやもや病は脳梗塞等の麻酔リスクが若干高い。」、「術後起こり得る合併症について」として「脳血流がぎりぎりまで低下しており麻酔等においても虚血を起こしやすい。」との記載があるところ、術中の脳出血に関する記載はなかった。
◇は、7月27日、間接吻合法による血行再建術(本件手術)を受けることに同意した。
◇は、遅くとも右視野の欠損症状を自覚するようになった平成18年頃以前から、日常的に高血圧の状態にあったところ、△病院の入院当日(7月16日)に計測した収縮期血圧は180であった(以下、特段の断りのない限り、「血圧」とは「収縮期血圧」という。)。A医師は、上記のような◇の血圧状態及び◇が既に脳梗塞を発症していることなどを考慮し、同日以降、オザぺンバッグ、ラジカットのほか、入院翌日(7月17日)以降、バイアスピリン(抗血小板剤)、オルメテック(降圧剤)を処方することとした。◇は、上記降圧剤等の効果により、7月17日の午前から午後にかけて、血圧が120前後に下がったことはあったものの、同日夜から翌18日にかけて150を超える状態が続き、同日午後には170に達し、ニフェラート(カルシウム拮抗薬、降圧剤)の投与を受けた。これにより、◇の血圧状態は、7月19日の午前中に120を下回ったことがあったものの、同月20日には180を超えたことから、ニフェラートの追加投与を受け、その後も140台~150台を推移した。そして、◇は、入院当日から本件手術前日までに1日を通じて血圧が150を下回った日はほとんどなく、入院当日から本件手術前日までの平均血圧値は140を超える状況にあった。
平成21年7月当時、△病院には、常勤の麻酔医がいなかったことから、A医師は、本件手術の数日前頃、T大附属病院に対し、◇の病名、性別、年齢等を記載した書面をファクシミリにより送信し、麻酔医の派遣を要請したところ、同病院所属のC医師が本件手術の担当麻酔医として派遣されることとなった。C医師は、脳神経外科手術の実施に伴う全身麻酔による麻酔管理については約300件の担当経験を有していたが、もやもや病の血行再建術の実施に伴う麻酔管理については担当した経験がなく、本件手術が初めてであった。なお、A医師は、本件手術より前に、もやもや病の血行再建術の執刀医として約10件の担当経験を有していた。
A医師は、本件手術の当日である7月29日の午前、△病院の脳神経外科の非常勤医師として週1回勤務していたB医師に声を掛け、本件手術の第1助手を務めてほしい旨依頼し、その承諾を受けた上、本件手術開始の約1時間前頃、B医師およびC医師との間で、本件手術の手順等について、口頭で打ち合わせを行った。その際、A医師は、C医師に対し、血圧管理上の目標値(血圧目標値)を「100」とするよう指示したが、◇の入院中の血圧値の推移、◇の病態、脳血流障害の程度、もやもや病の性質等から特に留意すべき事項についての説明はなく、C医師も、この血圧目標値の設定その他血圧管理上の方針について特に異議を述べることはなかった。また、C医師は、この指示等について、これまで脳外科手術の麻酔管理を担当してきた経験上、収縮期血圧を100前後の状態を維持することにより、全身麻酔下における患者の呼吸及び循環状態を安定させつつ、術中における出血抑制や早期の止血効果及びそれによる術野の確保等を図ることができ、手術を円滑に進められてきたことから、本件手術においても収縮期血圧を100前後に維持するのが相当であり、かつ、それで差し支えないものと考えた。
本件手術は、午後0時29分から午後7時5分まで(合計6時間36分)、麻酔時間は、午前11時2分から午後7時25分(合計8時間23分)であった。その間、収縮期血圧は100前後(拡張期血圧は50前後)で維持されたところ、午後1時25分頃からの約45分間、午後2時25分頃からの約1時間、午後5時15分頃からの約1時間、いずれも連続して100を下回り、また、午後3時35分から午後3時40分までの間は81~83、午後5時50分から午後5時55分までの間は87になっていた。
◇は、午後7時30分過ぎ頃、麻酔から覚醒し、午後8時頃、病室に戻ったが、その頃、やや呂律が困難な様子が見られ、意思が伝わりにくい状態にあった。また、◇は、病室において、手のしびれを訴え、家族に対し、「右手」といいながら「左手」を示す動作が見られたほか、呂律も不自由な状態が続いた。
◇は、午後11時30分頃、病室を訪れた看護師に対し、言葉を発しようとしても出にくい状態であり、左手のしびれも強く訴える動作を示したことから、看護師は、A医師にその旨を報告した。
A医師は、7月30日午前0時30分頃、◇に対し、頭部MRI検査を実施したところ、左後頭葉から側頭葉の部分に超急性期梗塞の所見を認めたことから、脳虚血の進行抑制、脳保護等を図るため、オザペンバッグ、バイアスピリン、ラジカットの投与を行ったものの、脳浮腫(脳腫脹)の拡大が進行し、脳室変形、さらに硬膜下血腫が見られるようになった。また、◇の呂律異常、発語困難はさらに悪化し、同日午後から翌31日には、発語自体が見られない状態になった。
A医師は、7月31日、◇の家族(妻、父母)に対し、外減圧手術が必要であるとの説明を行い、同意を受けた上、◇に対し、外減圧手術を実施した。
◇は、8月3日、脳保護を目的とする低体温治療法を受けるため、V救命センターに搬送され、その後、Uリハビリ病院に転院し、リハビリ治療等を受けたが、上記症状は改善されず、平成23年4月5日、後遺障害等級5級相当の後遺障害(右半身麻痺、失語症等)を有する状態で症状が固定した。
そこで、◇は、△病院において、本件手術後、右半身麻痺、失語症等の後遺障害が生じたことにつき、△に対し、本件手術を担当した医師らに本件手術における血圧管理上の注意義務違反があった旨主張し、診療契約上の債務不履行に基づく損害賠償請求をした。
原審が、△病院の医師らに血圧管理上の注意義務違反はなかった旨認定し、◇の請求を棄却したところ、◇はこれを不服として控訴した。
(損害賠償請求)
- 患者の請求額:
- 9814万7751円
(内訳:休業損害407万6685円+後遺障害逸失利益7115万1066円+後遺障害慰謝料1400万円+弁護士費用892万円)
(裁判所の認容額)
- 原審(奈良地裁)認容額:
- 0円
- 控訴審認容額:
- 6641万1365円
(内訳:休業損害不明(別紙略)+後遺障害逸失利益不明(別紙略)+後遺障害慰謝料不明(別紙略・ただし、本件手術がもやもや病を根治させるものではなく、将来にわたって脳梗塞の発症及び再手術のおそれが残り得ることを考えて損害分8115万1066円のうち、3割減少)+弁護士費用603万円)
(裁判所の判断)
医師に血圧管理上の注意義務違反があったか否か
この点について、控訴審裁判所は、もやもや病に関する平成21年当時の医学的知見及び診療に関する臨床上の実践状況等によれば、もやもや病患者の脳は、その一部の血流が阻害され、虚血状態が生じている上、本来備わっている自動調節能が障害されているところ、術前の血圧状態から血圧が過度に低下した状態が続いた場合、虚血状態が進行し、脳梗塞を発症、拡大させる危険があるというのであるから、もやもや病患者に対する外科手術を担当する医師(脳神経外科医師、麻酔科医師)は、血圧の低下が生じやすい全身麻酔を伴う外科手術を実施するに当たっては、上記危険を回避すべく、術前の血圧状態を適切に評価した上、術中にどのような血圧状態を維持すれば脳虚血の進行を防止しながら手術を遂行することができるかを検討し、術中、患者にとって過度に低い血圧状態にならないよう配慮した血圧目標値の設定を含む血圧管理上の方針を決定すべき注意義務を負っていたというべきであると判示しました。そして、術前の血圧状態については、いわゆる正常血圧(収縮期血圧が140以下)の範囲内にコントロールされているのが望ましく、また、複数の医学文献において、術中の血圧管理については、当該患者の術前の血圧状態を維持する(下回らない)よう努めるべきとされている一方で、全身麻酔による一定の脳保護作用を考慮することにより、術前の血圧状態よりも2割を超えて下回らない程度、あるいは、正常血圧の範囲内でコントロールされている場合には100を下回らない程度の状態で維持しても差し支えないとの見解もあり、統一的、画一的に定められた基準や指針等はなく、臨床医学上の実践としては、手術の術式、手術部位、予想される手術時間、当該患者の病態、体質、血圧状況その他術前の臨床所見等の個別事情を踏まえ、個々の手術ごとに当該患者にとって血圧目標値を設定すべきものとされていたことが認められるとしました。
本件手術についてみると、◇は、平成21年7月頃、平成18年頃から自覚症状のあった右視野の一部の欠損について、MRI等の検査を受けた結果、もやもや病を発症していることが明らかになり、左後頭葉の一部に脳梗塞が見られ、左大脳半球が右大脳半球の約60%に血流が低下した状態(同意書上の記載によれば「ぎりぎりに低下」した状態)にあったことから、早期に手術(血行再建術)を受ける必要があるとして、本件手術を受けることになったところ、△病院に入院した当日の血圧は180に達し、その後の入院中も日常的に降圧剤の投与を受けていたにもかかわらず、連日、140台から150台を推移し、1日を通して150を下回った日はほとんどなく、本件手術前日まで平均血圧は140を超えていたことが認められるとしました。
そして、本件手術の実施時間は5時間が予定されていたところ、術中の状況如何によっては予定時間を上回る可能性があり、本件手術前後の麻酔時間を合わせれば、◇が全身麻酔下に置かれる時間は相当長時間に及ぶことになるのであって、その間、◇の血圧状態が術前より過度に低下した状態が続いた場合には、既に発症していた脳梗塞をさらに拡大させる危険があったというべきであると判示しました。
そうすると、△病院の医師らは、本件手術を実施するに当たり、この危険が現実化することを避けるべく、特に主治医であるA医師は、もやもや病の性質、◇の病態、脳血流障害の程度、入院中の血圧値の推移等を踏まえ、術前の血圧状態を適切に評価した上、本件手術中は、術前の血圧状態を維持するか、あるいは、全身麻酔下における一定の脳保護効果を考慮することにより術前の血圧状態より低下した血圧管理を行うとしても、◇にとって過度に低い血圧状態とならないよう配慮した血圧管理を行う注意義務があったというべきであると判示しました。
しかしながら、A医師は、本件手術の実施が決定された7月24日以降、本件手術の麻酔管理を担当する麻酔科医師の派遣をT大附属病院に依頼したものの、その後、C医師が本件手術の麻酔管理を担当することが決定されてからも、本件手術の当日までC医師と打ち合わせを行うことはなく、また、本件手術の第1助手を務めたB医師についても、A医師が本件手術の当日である7月29日の午前に声を掛けて依頼したというのであって、△病院の医師らが本件手術について直接打ち合わせを行ったのは、本件手術開始の約1時間前頃に30分程度であり、その際、本件手術における血圧管理上の方針を決定するに当たっても、△病院の医師らは、もやもや病の性質、◇の病態、脳血流障害の程度、入院中の血圧値の推移等の個別事情を踏まえた協議は行わず、A医師が、C医師に血圧も目標値として収縮期血圧の数値を100程度で維持するよう伝えたにとどまり、C医師も、過去に担当した麻酔管理(ただし、同医師は、本件手術以前にもやもや病患者に対する血行再建術の麻酔管理を担当したことはなかった。)において同程度の状態を維持することにより特段の問題が生じた経験はなかったことから、特に異議等を述べることもなかったというのであると指摘しました。
その上で、控訴審裁判所は、△病院の医師らは、本件手術を実施するに当たり、もやもや病の性質、◇の病態、脳血流障害の程度、血圧値の推移等の個別事情を踏まえ、術前の血圧状態を適切に評価し、◇にとって術中の血圧状態が術前の血圧状態より過度に低いものとならないよう配慮した上で血圧目標値の設定を設定し、それに沿った血圧管理を行うべき注意義務がありながら、これを怠り、もやもや病の性質や◇のこの個別事情を検討することなく、一般的に正常血圧の範囲内でコントロールされた患者に対する脳外科手術の場合と同様の血圧状態をもって血圧管理を行っても差し支えないと判断したことにより、術中の血圧状態を許容される合理的な血圧範囲から逸脱させ、◇にとって術前の血圧状態より過度に低い血圧状態の下で血圧管理を行ったものと認められるとしました。
以上から、控訴審裁判所は、上記(控訴審裁判所の認容額)の範囲で◇の請求を認め、その後上告されましたが、棄却され判決は確定しました。