名古屋地方裁判所昭和59年4月25日判決 判例タイムズ540号276頁
(争点)
- 説明義務違反の有無
- 損害
*以下、原告を◇、被告を△1及び△2と表記する。
(事案)
◇(会社経営者男性。失明時54歳)は、幼児期から左眼がほとんど視力のない弱視(30ないし55センチメートル手動弁)であった。昭和38年に糖尿病であることを初めて指摘され、食餌療法等の説明を受けた。昭和50年10月、人間ドックの際、担当医師から糖尿病がひどくなっているとの診断を受けたが、眼底検査を受けず、そのまま放置していた。昭和51年2月ころ、自動車の運転中眼がかすむようになった。そこで、眼科医師の診察を受けたところ、多量の眼底出血があり糖尿病性網膜症であるとの診断を受け、右眼の視力は0.9であった。同年3月初旬頃、◇はN医大附属病院第一内科で受診し、糖尿病治療のため入院し、同年4月21日には同病院眼科に入院し、光凝固療法を受けた。同年5月24日に◇は同病院眼科を、同月28日には内科を退院した。退院に際し、同病院眼科の医師は、◇に対し、6月1日に来院することを指示し、全身的管理をするよう療養上の注意を与えた。ところが◇は、2週間分の投薬を受けただけで退院後同病院へは行かなかった。
同年9月初めころ、◇は急激に眼が悪くなり、N医大附属病院を訪れ、眼科医師の診察を受け、全身的管理を続けるよう注意を受けた。同月13日、◇は同病院を再来し、診断を受けた結果、右眼の視力は2センチメートルの手動弁で、矯正して20センチメートルの指数弁であった。眼圧は異常がなく、眼底所見は急激に悪化して、硝子体牽引による網膜剥離が発生しており、増殖期の第三期ないし第四期に進行していた。そこで、同病院眼科医師は、◇に対し、全身管理をし、安静にしているように注意したうえ、2週間分の薬を投薬して、9月20日に来院するよう指示した。
◇は、同年9月20日、△1社団法人が経営し、△2医師が院長を務める眼科△病院(以下、「△病院」という)を訪れ、副院長U医師の診察を受けたところ、右眼の視力は0.06であった。翌21日、△2医師が◇を診察したところ、眼底所見は視神経乳頭から黄斑部にかけて線維血管性の膜が一面に張りめぐらされ黄斑部が引張られて網膜剥離が生じており、右眼の糖尿病性網膜症は増殖性網膜症に進行していたので、入院を指示した。
同月24日、◇は△病院に入院し、翌日の検査では右眼の視力は0.08であった。
同月30日、◇は△2医師により硝子体手術(硝子体切除刀で先ず透明硝子を切除し、線維血管膜を剥離、切除し網膜に対する牽引を除去し、網膜の復位を図ることを目的とする手術方法)を受けたが、その際、同医師は、◇に対し、「糖尿病性網膜症は絶対に治らない。長く生きておれば必ず失明するから、あなたが生きている間に失明しないように一生懸命やって治します。」「この手術は失明しないようにするためにやるもので心配はない。私にまかせておきなさい。」などと説得したうえ◇の口頭による承諾を得たが、手術の内容、その危険性の程度、手術をしない場合の予後等については、十分に説明しなかった。
△2医師は、まず出血を防ぐためにジアテルミー凝固を行い、前処置をして硝子体手術にとりかかった。一時◇の血圧が下がったので、約30分中断したが、その後回復したため手術を続行し、顕微鏡下で網膜を引張っている膜をはがして取る操作をくりかえした。その過程において、網膜からかなり出血する合併症が生じたため、手術を中止するに至った。
同年10月6日、◇は目の包帯をとられたが視力がなく、回復しないまま同年11月9日に退院した。
△2医師は、出血が止まれば、網膜を引張っている膜を切り取ってあるので治癒の見込みがあるとして、◇に止血剤、消毒剤を投与し、退院後も通院するよう指示し、出血が止まれば治るから心配しないように告げて、昭和53年12月まで2年余にわたり経過観察の下に治療を続けたが、遂に◇の右眼の視力は回復しなかった。
そこで、◇は、説明義務違反により右眼失明に至ったとして、△1に対して債務不履行責任に基づき、△2医師に対しては不法行為責任に基づき、損害賠償請求をした。
(損害賠償請求)
- 患者の請求額:
- 3326万6300円
(内訳:逸失利益1139万9100円+慰謝料904万円+付添費用965万7200円+交通費92万円+弁護士費用225万円)
- 裁判所の認容額:
- 330万円
(内訳:慰謝料300万円+弁護士費用30万円)
(裁判所の判断)
1 説明義務違反の有無
前提として、裁判所は、◇の右眼の糖尿病性網膜症はその進行が非常に速やかであること、牽引性網膜剥離が自然に治癒するということは考えられないこと、糖尿病性網膜症は個々の症例によりその視力の予後はかなり異なることが認められると判示しました。そして、本件の事実関係からすると、◇の右眼の視力が自然に回復する可能性は認めがたく、そのまま放置すれば視力低下が続き、近い将来に必ず失明するとまではいえないが、やがては失明に至る可能性が大きいことが推認できると判断しました。
そのうえで、裁判所は、医師が患者に対し、手術等の医的侵襲を加え、そのため生命身体等に重大な結果を招く危険性の高い場合には、その重大な結果を甘受しなければならない患者自身に手術を受けるか否かについて最後の選択をさせるべきであるから、医師は説明義務の免除される特別の事情のないかぎり、その手術の目的、内容、危険性の程度、手術を受けない場合の予後等について十分な説明を行い、その上で手術の承諾を得る義務があると判示しました。
そして、本件当時、◇のような末期(重症)糖尿病性網膜症に対する硝子体手術は、成功率が約30パーセントという低い成績で、高度の技術を要し、手術が成功しても視力の回復が得られないこともあり、かつ、術中、術後の合併症の発生する可能性がある危険な手術であったことが窺われると指摘しました。そして、上記のような医師の一般的な責務と◇の左眼が幼児期からほとんど視力のない弱視であり、右眼が唯一の頼りであったことを併せ考えると、少なくとも、△2医師は◇に対し、本件手術の目的、内容、危険性の程度(成功の見通し、視力回復の見通し)、手術を受けなかった場合の◇の病態の予後等について十分な説明を行ったうえ手術の承諾を得る義務があったものといわなければならないと判示しました。
しかし、△2医師は、手術の内容について、「この手術は失明しないようにするためにやるもので心配はない。私にまかせておきなさい。」との趣旨の説明をしただけで、手術内容について具体的な説明をせず、また手術を受けなかった場合の予後についても、「糖尿病性網膜症は絶対に治らない。長く生きていれば必ず失明するから、あなたが生きている間に失明しないように治療する。」と述べただけで、適切な説明をせず、本件手術の危険性の程度に関しては一切説明をしないで、◇の承諾を得たことが認められると判示しました。
その上で、△2医師が説明義務を免れる特別の事情の認められない本件においては、同医師が上記説明義務を十分に履行しなかったことにつき過失があると判断しました。
2 損害
この点について、裁判所は、仮に△2医師が手術内容及びその危険性等について説明義務を尽くしていたならば、◇が手術を拒否し、右眼失明を阻止し得た蓋然性を全く否定することはできないが、◇は、本件手術時に至るまでの医師の注意した全身管理を怠り、糖尿病性網膜症に罹患悪化させる結果となったこと、また本件硝子体手術の成功率は30パーセント程度で決して高いものではないが、◇の病態にとっては残された唯一の治療法であり、手術を受けなかった場合の予後については失明に至る可能性が大であったこと等を併せ考えると、△2医師が上記説明義務を尽くしたなら、◇が本件手術を拒否して現状の視力を維持し右眼失明を免れ得たかどうかについては必ずしも明らかでない。
裁判所は、してみると、△2医師の上記説明義務違反の過失と◇の右眼失明による損害との間に相当因果関係があるものとは認められないと判示し、したがって、◇の失明による逸失利益及びその他財産上の損害等に関する請求部分は理由がないと判断しました。
そして、慰謝料と弁護士費用を本件と相当因果関係のある損害として認めました。
以上から、裁判所は、上記(裁判所の認容額)の範囲で◇の請求を認め、その後、 控訴されましたが、控訴後、和解が成立し、裁判は終了しました。