東京地方裁判所平成16年4月27日判決 判例タイムズ1211号 214頁
(争点)
ドルミカムの投与量、投与方法等に関する過失の有無
※以下、原告を◇、被告を△と表記する。
(事案)
◇1(平成10年9月当時79歳の男性、中華人民共和国で生まれ、台湾に渡り、昭和27年に来日し、日本での永住許可を受けて日本で生活していた。身長約172センチメートル、体重約80キログラム)は、平成10年5月ころ(以下、特段の断りのない限り同年のこととする)から、視力の低下を自覚し、眼鏡を作り替えるため、6月19日、A眼科病院において視力検査等を受けたところ、左眼に視野狭窄があることが判明し、7月に同病院で検査を受けたところ、脳下垂体腺腫の疑いがあることが判明した。
◇1は8月5日、国立△大学病院(以下、「△病院」という。)に勤務するT医師の診察を受けた。T医師は、◇1に脳下垂体腫瘍(薬物によって治療することができないホルモン非産生型腫瘍)が存在することを確認し、手術以外に視野障害を改善する方法はない旨説明したところ、◇1は手術を受けることに同意した。
9月7日、◇1は手術のため△病院に入院した。◇1は入院後に検査を受けたところ、副鼻腔(蝶形骨洞)が、ほとんど発達していないことが判明した。そのため、通常であれば鼻から蝶形骨洞を経由して脳下垂体腫瘍を摘出するところ、それが困難になった。
T医師は、高齢者の場合、全身麻酔による開頭術は、患者に対する侵襲が大きく、術後にせん妄(意識、注意、認知、知覚が障害される病態)状態をしばしば起こすことから、当初は開頭術による脳下垂体腫瘍摘出術は避ける意向であった。しかし、◇1が薬物治療のできないホルモン非産生型腫瘍であり、蝶形骨洞の発達が極端に悪く、経鼻的手術が困難であると判断し、結局、T医師は、開頭術による脳下垂体腫瘍摘出術(以下、「本件手術」という。)を行うこととした。
本件手術は、9月24日午前8時30分ころから午後4時30分ころまで、約8時間かけて行われた。本件手術は、全身麻酔の導入時に、◇1の舌が大きく、咽頭部分が深かったため、気管内挿管が難しく、歯が折れてしまったことを除いて、特に問題はなく、無事終了した。
9月24日午後4時30分ころ、◇1は脳外科病棟の回復室に入った。◇1は舌が大きいことから呼吸困難の傾向が若干見られたが、マスクによる酸素投与や酸素飽和度には特に問題がなかった。
なお、T医師は、大きな開頭手術を行った上、◇1が高齢であることから、せん妄が現れる可能性があると考え、あらかじめ◇1の家族にもその旨説明をするとともに、回復室のO医師(9月当時、まだ4ヶ月弱の経験しか有していない研修医)にも、せん妄発生の可能性や鎮痛を行わなければならないこともあるが、そのときは呼吸抑制に注意するようにと話した。
◇1は呼吸に困難があったため、うなっていたものの、話かけられると理解良好で、意識レベルは大体清明と考えられた。また、発語は不明瞭であったが、名前、年令等は返答が可能であった。
9月25日に◇1は、CTスキャンや血液検査を受けたところ、特に問題もなく、異常所見は認められなかった。
◇1は、同日の日中は、前日よりも落ち着いており、日本語の会話による意思疎通が本件手術前よりも困難な状態になっていたものの、意識状態は、時間が経過するにつれて、回復してきており、質問にも正答することが多くなった。しかし、少しずつ不穏の徴候も現れ、時々、治療上重要なものであった尿道カテーテル、点滴用ルート等に手を伸ばすようになった。
そして、同日午後5時ころから、段々と行動が活発になり、身体に付けていたモニタ類のコードや尿道カテーテル、点滴用ルート等を探ったり、引っ張るなどといった本件手術に伴う、一過性のせん妄状態を示すようになった。そのため、担当の看護師は、このようなせん妄状態を和らげるべく、◇1に対して、度々「名前は」「今日は何日」「ここはどこ」などと問いかけていた。◇1は、夕方ころ、モニタ類のコードや点滴用ルートの接続を外そうとしたり、ベッド上で起き上がろうとするなどといった動作が見られるようになったため、担当のS看護師は、◇1に対しこれらの行動は危険であることを何回か説明した。S看護師は、同日は準夜勤であって、4人部屋6室と回復室の◇1を受け持っており、そのため、常時、◇1のそばについていることができる状態ではなかった。
結局、S看護師は、◇1が点滴用ルート等を外したり、ベッドから起き上がることのできないようにするため、◇1の四肢を抑制帯によってベッドに拘束し、体幹も軽い抑制をした。
◇1は、拘束されると、思うように動くことができないことから、抑制帯を外そうと、手足を動かすようになり、その状態は夜になるにつれて、更に悪化するようになった。また、従前の病室へ帰ろうとするようになった。
午後7時ころに、◇1は興奮し、声をあげてベッドの柵を揺らし、抑制帯を取り外そうとしたので、S看護師は、説得を試みたものの、◇1は理解することができていないようであった。
困惑したS看護師は、当日まだ医師控え室におり、時々回復室にも様子を見に来ていたO医師に相談した。O医師は、以前にT医師から、抑制の試みや、逆に抑制をすごく嫌がるときはそれを外してみたりして、いろいろ行ってみてはどうかというアドバイスを受けていたことを思い出し、S看護師が不在の時、一人で◇1の抑制を外してしまった。S看護師は、O医師が◇1の抑制帯を外した上、◇1の側を離れてしまったことからその対応につきO医師と口論となった。しかし、◇1は思うような動きができるようになったので、一旦少しは落ち着いた状態となった。もっとも、◇1は、コード類が気になっていることがあった。
O医師は、本件手術後24時間以上経過しているので、モニタ類を外してみてはと考え、I医師に確認をとった上で、モニタ類を外しておくこととした。
9月25日夜から翌26日にかけての深夜勤であって◇1を担当したM看護師は、◇1はせん妄が強く、日本語での会話は理解していないようであるが、筆談で意思の疎通を図る ことができ、落ち着きがないので、人が付いている必要があるなどとの申し送りを受けた。
M看護師は、◇1の余計な興奮を避けるため、体幹部のみを抑制帯で拘束したが、それでも◇1は起き上がろうとしたり、抑制帯を外そうとしたりした。O医師は、抑制帯を外すよう指示したため、この指示に従ってM看護師が抑制帯を外したり、再びM看護師が抑制帯を付けたりするなどといったことが何回か繰り返された。O医師も、既に本来の勤務時間を過ぎていたが、帰宅できず、◇1に対し日本語で説得を試み、繰り返し筆談でコミュニケーションを図ろうと努力するなどした。
◇1の行動は改善されず、9月26日午前0時ころ、ベッドから降りようとするなど、相当興奮するようになり、筆談も通じづらくなった。また、抑制帯による拘束を行うと、暴れて、抑制帯を外すように訴えた。
そこで、M看護師は、O医師の指示により、◇1に対し、同日0時10分ころ、睡眠薬であるレンドルミン0.25ミリグラムを経口投与したところ、◇1は入眠した。なお、そのころ、◇1は舌が腫れていたため舌根沈下気味の呼吸であった。
◇1は同日午前1時30分ころ、覚せいし、再びせん妄状態を示すようになった。そのため、抑制帯を外す、筆談を試みるなどの処置を執ったが、◇1はうんうんとうなずくもののすぐに動こうとした。そして、M看護師が他の患者の世話のため、◇1のそばを離れると、ナースコールを押し続けてM看護師を呼び付けるようになった。◇1は、入眠前よりも興奮状態が強まり、立ち上がろうとし、それを制止すると暴れるといった状態であった。
O医師とM看護師は、口頭、身振り、筆談といろいろ手を尽くして説得を試みたが、◇1はこれに応ずるそぶりはなく、ベッドサイドに立ち上がってしまい、歩き回ろうとした。
O医師は、看護師に対し、いったん再度レンドルミンを投与する指示をした。しかし、O医師は、◇1の状態を観察して、薬剤による強い沈静化が必要であると判断し、ドルミカム(ベンゾジアゼピン系睡眠薬の一種で効果の発現は超短時間型に分類されている。添付文書には「適応」として、麻酔前朗役、全身麻酔の導入及び維持のみが記載されている)を静脈注射することに指示を変更した。
O医師は、◇1に対し、午前1時50分ころ、点滴用ルートを用いて、ドルミカム7.5ミリグラムを静脈内に投与した。もっとも、O医師は、ドルミカムの投与量を決定する際に、◇1の舌の大きさには配慮していなかった。O医師は、点滴の速度をいったん早め、ドルミカムが血管内に入るように2ないし3分待ったものの、◇1の状態に変化はなかった。
そこで、O医師は、ドルミカムの投与量が不十分であったと判断し、午前0時52、3分ころ、更にドルミカム2.5ミリグラムを投与した。今度は◇1は数十秒で入眠した。
O医師は、◇1に対し、呼吸抑制に備えて、酸素飽和度モニタを装着し、ベッドサイドで経過を観察した。
ところが、◇1は、2度目のドルミカムの投与を受けて、間もなく呼吸抑制状態に陥り、午前1時55分ころには、自発的に換気が行われない呼吸停止の状態に陥った。◇1は、強いいびきをかくようになり、舌根沈下の状態になった。
そこで、O医師は、◇1に対し、気道確保のための体位を取らせた上でアンビューバッグで人工呼吸を行った。しかし、O医師は、気道の確保をすることができなかった。なお、9月当時、O医師は、気道確保や人工呼吸の手技を実際の診療に用いた経験はまだなかった。
O医師は、当直医の応援を求めようとしたが、連絡がつかなかったことから、午前2時ころ、救急部に電話連絡をした。
救急部のU医師は、まもなく◇1のもとに到着したが、既に◇1は低酸素血症に陥り、心停止ないし心停止寸前の状態であった。U医師は、気管内挿管と心臓マッサージを実施しようと考え、アンビューバッグによる人工呼吸を続けて酸素化を図りつつ気管内挿管の準備を指示した。そして、午前2時5分ころ、気管内挿管の手技を開始し、午前2時7分ころ、気管内挿管ができた。
しかし、その後、◇1は低酸素性脳症による遷延性障害を負うことになり脳の萎縮も見られ、意識が回復せず、声を出すこともできない状態になった。
そこで、◇ら(◇1およびその妻と二女)は、◇1が△病院の医師から、ドルミカムを投与された結果、いわゆる植物状態に至ったと主張し、△(提訴時は国。国立大学法人化に伴い、△国立大学法人が訴訟を承継した)に対し、不法行為又は診療契約上の債務不履行に基づき損害賠償請求をした。
(損害賠償請求)
- 請求額:
- 1億0313万2712円
(内訳:逸失利益1772万9500円+後遺症慰謝料3000万円+治療費616万5762円+付添介護費2359万0680円+入院雑費73万4500円+近親者交通費681万0336円+介護器具費53万6418円+介護用具費118万9815円+妻と二女の慰謝料2名合計700万円+弁護士費用937万5701万円)
(裁判所の認容額)
- 認容額:
- 6605万2583円
(内訳:逸失利益885万0400円+後遺症慰謝料2400万円+治療費618万7042円+付添介護費1415万4408円+入院雑費73万4500円+介護器具費53万6418円+介護用具費118万9815円+妻と二女の慰謝料2名合計400万円+弁護士費用640万円)
(裁判所の判断)
ドルミカムの投与量、投与方法等に関する過失の有無
この点について、裁判所は、本件で使用されたドルミカムの用法及び用量は、麻酔医、又はドルミカムの使用及びこれによる呼吸抑制が生じた場合の気道確保等に十分な経験を有し、患者の個別的・具体的状態を吟味して、事故を防ぐ限度での沈静化のために必要、かつ、安全なドルミカムの用法及び用量を決定することのできる医師が、慎重に症状を観察しながら行うのであれば、許され得る用法及び容量ではあろうが、麻酔医でもなければ、上記のような十分な経験を有する者でもない研修医であるO医師が、単独の判断で行う場合には、ドルミカムの適応外投与を慎重に行わなければならないという注意義務に違反するおそれの高い行為であるといわざるを得ないと判示しました。
さらに、ドルミカムの添付文書(能書)には、「重要な基本的注意」として、投与前に酸素吸入器、吸引器具、挿管器具等の人工呼吸のできる器具を手もとに準備しておくことが要求されているとしました。裁判所は、これは、ドルミカムの投与により副作用として呼吸抑制や舌根沈下が生ずることがかなりの割合であるため、過度の呼吸抑制が生じた場合に備えて、人工呼吸のできる器具を準備しておき、直ちに対処することを促したものであると解することができると指摘しました。
そうすると、このような注意事項は、ドルミカムを投与する医師自身が人工呼吸の技能を有しているか、又は人工呼吸の技能を有する医師の管理の下で、ドルミカムが使用されることを前提としたものであるということができると判示しました。
特に、本件においては、既に判示したとおり、ドルミカムの用法及び用量が、本件の具体的事情の下では、注意義務違反に当たるおそれが高いのであるから、あらかじめ、ドルミカムの投与により◇1の呼吸が抑制され、気道を確保しなければならない事態になり得ることを当然に予想し、その対処までも検討しておかなければならなかったというべきであるとしました。しかも、◇1は高齢であって、大手術からまだ36時間も経過していない衰弱状態にあり、呼吸の困難もあったのであるから、投与後の心肺蘇生処置は、通常以上に、より確実性が求められるというべきであるとしました。それに加え、◇1は、舌が大きく、本件手術時の気管内挿管にも問題があったのであるから、ドルミカムを投与する医師としては、そのことを考慮した上で、気管内挿管を行う事態になった場合には、難渋するおそれがあることも当然に見越した対応策を執っておかなければならなかったというべきであると指摘しました。
ところがO医師は、麻酔医ではなく、当時、経験約4ヶ月の研修医であったのであるから、医師としての経験が豊富であったとはいえず、しかも、気管内挿管という手技を用いる技量を持っていなかったというほかない。
そうすると、O医師は、(1)本件のような用法及び用量でのドルミカムの投与をせずに、拘束や、より緩やかな薬剤の投与、他の医師を呼ぶなど別な手段で、◇1が事故を起こすのを防ぐか、又は(2)◇1に対し、本件のような用法及び用量でドルミカムを投与する場合は、人工呼吸用器具等を手もとにそろえておくとともに、自らの処置では、◇1の呼吸抑制状態を改善することができない事態に備えて、事前に、指導医あるいは当直医又は救急部に連絡を取っておくなどして、投与後に呼吸抑制が発現しても、直ちに気道を確保して心肺蘇生処置を行うことにつき、支障を来すことのないように、あらかじめ対処した上で、ドルミカムを投与し、強い呼吸抑制の発現後、直ちに気道確保を含む心肺蘇生処置を行うという注意義務があったというべきであると判示しました。
ところが、O医師は、◇1に、上記いずれの処置や対処策も執らずに、ドルミカムを投与し、◇1に、予見することのできた強い呼吸抑制が実際に生じた際、◇1の気道を確保することができず、低酸素状態の継続という事態を招いてしまったのであるから、O医師には、ドルミカムの用法及び用量、ドルミカムの投与前における心肺蘇生処置の準備並びに投与後の心肺蘇生処置の実施につき、過失があるといわざるを得ないとしました。
以上から、裁判所は、上記(裁判所の認容額)の範囲で◇らの請求を認め、この判決に対しては控訴がされましたが、控訴審で和解が成立して裁判は終了しました。