東京地方裁判所平成14年12月18日判決 判例タイムズ1182号295頁
(争点)
- 宿直医の診療上の過失の有無
- 逸失利益及び慰謝料
(事案)
X1は、平成9年12月2日にY1医師の開設する産科・婦人科病院(以下、「Y病院」という。)で診察を受け、平成10年8月6日に出産予定と診断された。
平成10年8月3日までの間、胎児の発育は順調で、母児ともに健康であった。
平成10年8月4日(以下、年の記載のないものは平成10年の出来事であり、年月日の記載がないものは平成10年8月4日の出来事である)、午前2時40分ころ、X1は、自宅で就寝中に突然大量の性器出血を起こした。Xら(X1およびその夫X2)は、Y病院に電話をかけたところ、助産婦のAはすぐ来院するように指示した。
X1は、出血がひどかったことから、自宅を出る前に風呂場で手足に付着した血を洗い流したが、その際も出血は止まらず、こぶし大の血の塊が出るなどした。
その後、Xらは、X2の運転する自動車で急いでY病院へ向かい、午前3時15分ころまでには同病院に到着した。
Aは、X1の出血量が予想以上に多かったことから、X1を診察室のベッドに寝かせた上、当直室に電話をかけて、宿直医でありY病院に勤務するY2医師を呼んだ。そして、Aは、Y2医師が診察室に現れるまでの間、超音波で胎児の心拍に以上がないことを確認するとともに、X1の大腿部に付着していた血液を清拭した。この時点でも、なお少量の出血が続いていたが、X1の血圧及び脈拍は正常値の範囲内であった。
午前3時30分ころ、Y2医師が診察室に現れ、内診を行ったところ、この時点ではほぼ出血は止まっていたものの、膣内に約20グラムから30グラムの凝血が認められた。Y2医師は、出血の原因は前置胎盤ではないかと考え、超音波による診断を行ったが、胎盤の位置には問題がなく、前置胎盤は認められなかった。他方、Y2医師は、常位胎盤早期剥離の可能性についてはこれを全く念頭に置いておらず、常位胎盤早期剥離の有無を確認するための検査等は行わなかった。
結局、Y2医師は、出血の原因は子宮頸管の断裂等であって、特に問題はないと考えるに至り、その旨をXらに述べた。そして、X1が腹部の痛みを訴えていたことなどから、すでに陣痛が始まっているものと判断して、そのまま同人を入院させることとし、午前3時50分ころ、X1を陣痛室へと移動させた。
陣痛室において、X1に分娩監視装置が装着された。このとき、胎児に軽度の頻脈(心拍数が通常よりも多いこと)がみられ、胎児心拍数は概ね170/分から180/分の間で推移していた。
また、分娩監視装置が装着されて以降、胎児にアクセレーション(一過性の頻脈)はみられなかった。
Y2医師は、X2に対し、帰宅していい旨伝え、特段の監視体制をとることなく、Aとともに陣痛室を立ち去った。
しかし、X2はその後もX1に付き添って陣痛室に残っていたところ、午前4時ころ、子宮の収縮に遅れて胎児心拍数が170/分前後から65/分前後まで低下し、かつその回復に3分間を要する大きな徐脈(本件徐脈)が発生した。
このとき、X1が下腹部の強い痛みを訴え、しかも分娩監視装置に赤いランプが点ったことから、X2は不安を覚え、ナースステーションにいたAを呼び寄せた。Aは本件徐脈の発生を知って驚き、X1に大量の出血があったことや胎児に軽度の頻脈がみられたことを併せて考えれば胎児仮死を警戒すべき緊急の事態であると判断し、当直室にいたY2医師に電話をかけて、頻脈の存在及び本件徐脈の概要を報告した。
しかし、Y2医師は、本件徐脈を深刻なものとは受け止めず、Aに対し、電話で酸素吸入及び仰臥位から側臥位への体位変換を指示したのみで、自らは陣痛室に赴くことなく当直室にとどまっていた。
午前4時15分ころ、分娩監視装置に再度赤いランプが点ったことから、X2は再び胎児に徐脈が発生したものだと考えて、ナースステーションにいたAを呼び寄せた。
このとき、X1が腹痛を訴え、少量ながら出血も続いていたことから、Aはパットの交換を行うとともに、血管確保の処置をとった。
そして、X2がAに不安を訴えた結果、午前4時30分ころ、AからX1に対し、あと1時間ほど様子を見た上で帝王切開を実施するか否かを検討する旨の病院の方針が伝えられた。その後も、X1の腹痛と出血は続き、午前5時ころからは、胎児に徐脈が発生するようになった。しかし、Y2医師が陣痛室に現れることはなかった。
午前5時25分ころ、ようやくY2医師が陣痛室に現れた。Y2は、胎児に徐脈が頻発していることやX1の出血が続いていることに疑問を感じたものの、依然として胎児仮死を警戒すべき緊急の事態であるとの認識は有しておらず、Xらに帝王切開を勧めることはなかった。
しかし、一連の経過に不安を抱いていたX2が、いっそ帝王切開をしてはどうかと提案したことから、Y2医師はこの提案に応じて帝王切開を行うこととし、自宅にいたY1医師を病院に呼び寄せるとともに、手術の補助のため、自宅にいた助産師のBをY病院に呼び寄せた。
午前6時30分ころ、胎児心拍数が約120/分と確認された。
午前6時37分にY2医師とY1医師によって執刀が開始され、帝王切開の結果、午前6時43分に女児が娩出されたが、同時点では女児はすでに死亡していた。
そこで、Xらは、Y1医師及びY2医師に対し、Y2医師の過失によって児が死亡したと主張して、Y2医師に対しては不法行為に基づき、Y1医師に対しては、使用者責任に基づき損害賠償請求をした。
(損害賠償請求)
- 請求額:
- 胎児の両親合計7500万円
(内訳:胎児の逸失利益5201万6961円+慰謝料2023万3039円+葬儀費用100万円+弁護士費用175万円)
(裁判所の認容額)
- 認容額:
- 胎児の両親合計3200万円
(内訳:慰謝料両親合計2800万円+葬儀費用100万円+弁護士費用300万円)
(裁判所の判断)
1 宿直医の診療上の過失の有無
- (1)
裁判所は、常位胎盤早期剥離について、次の事実を認めました。
常位胎盤早期剥離は、正常な位置に付着した胎盤が胎児の娩出以前に乖離する疾患であり、典型的な臨床症状としては、性器からの外出血、下腹痛、強度の子宮収縮及び子宮の圧痛等が挙げられる。
常位胎盤早期剥離は、短時間で急速に進展して胎児の子宮内死亡をもたらす重篤な疾患であり、また、剥離面積が30%未満の軽症であっても、胎児が仮死状態で娩出されることが多い。
したがって、前記臨床症状のうちの1つでも認められた場合には、常位胎盤早期剥離を疑い、問診、触診、血圧測定、血液検査、尿検査、超音波検査、胎児心拍のモニタリング等による総合的診断を行い、常位胎盤早期剥離の有無を確認する必要がある。
ただし、超音波Bモードによって常位胎盤早期剥離の有無を確認することは極めて困難であり、超音波Bモードは、常位胎盤早期剥離と並ぶ出血性疾患である前置胎盤の可能性を排除するという点にその主たる機能があるといえる。
そして、総合的診断の結果、常位胎盤早期剥離が濃厚に疑われる場合には、子宮口が全開大であるような例外的な場合を除き、直ちに帝王切開を実施する必要がある。
なお、常位胎盤早期剥離の初期には、胎児にアクセレーションの減弱や頻脈が発生し、また常位胎盤早期剥離が進行すると、遅発一過性徐脈等が出現する。
一過性徐脈とは、子宮の収縮に伴って一過性に胎児心拍が低下することをいう。遅発一過性徐脈は、一過性徐脈のうち、子宮の収縮に遅れて胎児心拍の低下が始まるものであり、胎児仮死の前兆とされる。
- (2)
その上で、裁判所は、本件では、分娩監視装置が装着された午前3時50分の段階においては、すでに、X1に性器からの外出血及び腹痛という常位胎盤早期剥離の臨床症状が認められ、しかも他の出血性疾患である前置胎盤の可能性が超音波検査によって排除されていたのであるから、午前3時50分の時点では、常位胎盤早期剥離を強く疑い前記のような総合的診断を行うことが必要な状況にあったということができるとしました。
そして、午前4時ころには、子宮の収縮に遅れて始まる徐脈、すなわち遅発一過性徐脈が出現し、しかもこの徐脈は170/分前後から65/分前後まで胎児心拍が低下し、かつその回復に約3分間を要するという極めて深刻なものであったことが認められるとしました。
さらに、分娩監視装置の装着後、胎児に軽度の頻脈がみられ、かつ分娩開始装置が装着されて以降、胎児にアクセレーションは見られなかったのであり、これらの客観的事実を総合すると、本件徐脈が発生した午前4時の時点では、常位胎盤早期剥離の発生が極めて濃厚に疑われる状況にあったということができるとしました。
したがって、子宮口の全開大といった例外的な事情が認められない本件においては、Y2医師は、午前4時の時点で直ちに帝王切開を決断し、帝王切開を実施するため緊急に母胎を他の病院に搬送するか、又は緊急に自院で帝王切開を実施する義務があったというべきであると判示しました。
裁判所は、しかるに、Y2医師は、上記義務に違反して、上記のような適切な処置をとらなかったものであると判断しました。
2 逸失利益及び慰謝料
- (1)逸失利益について
裁判所は、本件で女児(胎児)は娩出時点ですでに死亡していた死産児であった。そうすると、女児(胎児)は、出生によって権利能力を取得する以前に死亡したものであるから、Xらの請求のうち、女児(胎児)の逸失利益相当額の損害賠償を求める部分は理由がないと判断しました。
- (2)慰謝料について
裁判所は、まず、胎児が死亡したのは、出産の直前であったと認められるから、胎児の死亡によって両親であるXらが被った精神的苦痛の程度は、新生児が死亡した場合と変わりがないと判示しました。
次に、本件の帝王切開は、一連の経過に不安を抱いた素人であるX2の要望により決断されたものであった。また、当時の切迫した状況は分娩監視装置の記録等から助産師のAも、応援要請を受けてかけつけた助産師のBも、容易に認識することができるものであった。しかし、ひとり胎児を救命すべき法的義務を負いその法的資格を持つYらだけが、結局最後まで危険を認識できなかった。このようにY2医師の義務違反の程度は高く、「産科の知識が私たちから見たら低いレベルにあると思います」とのX1の批判も理由のないこととはいえないと指摘しました。
更に、Y2医師が次のような行動がとったことが認められると判示しました。
- a
- 女児(胎児)の娩出児の体重は2812gと正常であったにもかかわらず、自己の過失を隠ぺいするために、X2に対し、女児(胎児)の体が通常よりも小さかったことが死亡の原因であるかのように説明した。
- b
- 自己の過失を隠ぺいするために8月4日以降、カルテの一部を改ざんした。
- c
- 自己の過失を隠ぺいするため、Xらに対し、女児(胎児)は生きて生まれた旨の虚偽の説明を行い、出生証明書及び死亡診断書を発行した。しかし平成11年11月になって、Xらが訴訟をも辞さない構えを見せるや、敗訴等の場合に備えて損害額を減少させる意図から女児(胎児)は死産児であった旨説明を一転させた。
- d
- 自己の過失を隠ぺいするため、助産師Bに対し、帝王切開の決定時には既にY2医師は緊急の事態であることを認識していた旨の虚偽の内容を記載した陳述書を作成するよう要求した。
そして、上記要求に困惑した助産師Bが、最終的にX2と相談の上、事実を率直につづった陳述書を提出するや、助産師Bの人間性や職務態度を誹謗・中傷する内容の陳述書を提出し、この中でXらとBが通謀して計画的にYらを陥れようとしたかのように記載した。
その上で、裁判所はa~dで認定したY2医師の行動は、医師としての基本的な倫理・道徳に反するものであって、我が子を出産直前に失い悲嘆にくれるXらを愚弄するものであり、これによってXらはさらなる重大な精神的苦痛を被ったものと認められると判示しました。
以上の各事情のほか、女児(胎児)はXらが不妊治療を経た末に授かった待望の第一子であったことや、Y2医師の診療上の過失の内容が極めて初歩的なものであると認められることなど、本件訴訟に現れた諸般の事情を考慮すると、本件においてはXら各自について1400万円ずつの慰謝料を認めるのが相当であると判断しました。
以上から、裁判所は、上記(裁判所の認容額)の範囲でXらの請求を認め、その後判決は確定しました。