京都地方裁判所平成3年12月5日判決判例タイムズ788号 252頁
(争点)
経過観察義務違反の有無
(事案)
X(分娩時29歳の女性・専業主婦)は、昭和59年4月21日午前6時頃、Y医師の開設、経営する産婦人科病院(以下、Y病院という)に入院し、同日午前6時30分第一子を、同36分第二子をそれぞれ出産した。
担当のB医師は、Xの出産が初産であるため、胎児の産道通過を容易にし、また、会陰の自然裂傷の発生を回避することを目的として、正中切開の方法により会陰切開術を施したが、肛門括約筋の損傷を裂けるために、肛門側に手をあてて、会陰部のみを肛門方向に向かってクーパー(先の丸い手術用はさみ)で一センチメートル強程度切り、第一子については吸引分娩の方法を、逆子であった第二子の出産には、骨盤位搬出の方法を採った。
B医師は、会陰部縫合時、指診及び触診により、創部の範囲を確かめ、肛門部近くまで自然に裂傷ができていたが、肛門部には損傷を認めなかったので、Xの会陰の裂傷部の筋層とその上の皮下組織の部分をカットグート(自然に溶ける糸)で修復し、最終的に会陰の表皮部分をクレンメ(創部を固定するクリップのようなもの)で固定した。
Y医師は、昭和59年4月23日、Xの血液検査及び感染検査を行い、貧血のないこと、検査値が入院時とほとんど変わっていないことを確認した。
Y医師は、同年4月24日、上記クレンメを除去し、消毒をしたが、その際の診断では、異常はなかった。
B医師は、同年4月25日、Xの子宮の収縮状態や悪露の状況等を診察した。なお、Y医師は、同日、Xが便秘していたので、Xに対し、排便を促進するためテレミン(坐薬)を投与した。Xは、この坐薬を使用した結果、肛門部に鋭い痛みを感じたが、排便はなかった。
B医師は、同年4月26日、Xを診察し、会陰創部を押さえると、Xが圧痛を訴えたので、創部の消毒及び抗生物質の入った軟膏の塗布等の処置を行うとともに、分娩後の検査の指示等を行った。
Xは、肛門痛及び肛門からの出血があったので、その旨をY医院の看護師に訴えた。
B医師は、同年4月27日、Xの腹部の診察をし、投薬の指示を行った。Xは、同日、肛門痛があり、前夜肛門から出血があったので、その旨をY病院の看護師に訴えた。
Xは、同年4月28日会陰部痛が、同年4月29日には肛門痛があったので、その旨をY病院の看護師に訴えた。
Y病院のC医師は、同年4月30日夜、Xを診察し、肛門痛・肛門括約筋痛があり、肛門付近が硬く、痛みがある旨及び会陰創部にびらんが認められる旨診療録に記載した。
Y医師は、同年5月1日、前夜の診療録の記載を見たうえXを診察し、Xの会陰創部にびらんを認めたので、その表皮の部分を寄せて、クレンメ2本で留めた。
Y医師は、同年5月4日、Xを診察し、上記創部に装着したクレンメを除去し、退院させたが、その際、Xの希望により、下剤5日分を渡した。
Xは、退院後約1ヶ月間、排便の際肛門部に鋭い痛みを感じ、その後も約半年間は、便秘で苦しむとともに、排便の際、肛門痛を感じていたが、右肛門痛はその後薄らいできたものの、下痢状態の際には大便が漏れるという状態が続いており、肛門括約筋の受傷時から完治時までの間、ガス漏れや大便漏れ(月2回ないし3回程度)のため買物や散歩のための外出を控えざるを得なかった(下痢気味以外のときは大便漏れはなかった)。
しかし、Xは、同年5月7日、21日、28日及び同年6月2日、Y病院で検診を受けたが、上記のような便が漏れる状態についてはY医師に告げなかった。
Xは、その後も、大便漏れやガス漏れが続いたので、昭和62年6月24日、D医院で診察を受けたところ、肛門の痛みや大便が漏れる原因は、出産の際肛門括約筋が切れたことが原因であると説明を受け、さらに同年6月26日、7月1日、および3日、E大学医学部付属病院、同年8月22日、F病院で診察を受けた。
F病院のG医師は、Xの肛門括約筋が零時から4時の方向(零時は膣方向)にかけて欠損し、欠損部分は奥行き4ないし5センチメートルに及び、創傷が瘢痕化し、内外肛門括約筋の部分断裂があると診断した。
そこで、Xは、同年8月25日、F病院に入院し、同年8月27日、G医師らの執刀により、肛門括約筋断裂について、肛門括約筋瘢痕を切除し、内外括約筋断裂部分を縫合する手術を受け、治癒した。
そこで、Xは、Y病院の医師らに、経過観察義務違反がある等として、Y医師に対して損害賠償請求訴訟を提起した。
(損害賠償請求)
- 請求額:
- 934万3192円
(内訳:治療費8万5180円+通院交通費1万8400円+入院雑費1万5600円+休業損害8万7238円+後遺障害による逸失利益310万6775円+慰謝料522万9999円+Y病院における分娩及び入院費用相当額50万円+弁護士費用80万円の合計984万3162円の内金)
(裁判所の認容額)
- 認容額:
- 261万5118円
(内訳:治療費8万5180円+入院雑費1万2000円+休業損害8万7238円
+後遺障害による逸失利益53万700円+慰謝料160万円+弁護士費用30万円)
(裁判所の判断)
経過観察義務違反の有無
裁判所は、まず、肛門括約筋断裂の原因につき、Xがこれまで痔瘻の手術を受けたことはなく、また、暴行を受けたこともないこと、Y病院での分娩後からXの大便漏れが始まったことの他、Xは本件分娩後昭和62年6月にD医院で肛門括約筋断裂と診断されるまでの間分娩をしたことがないことから、Xの肛門括約筋断裂の原因は、XのY病院入院中に生じたものと判断しました。
その上で、裁判所は、会陰創部を縫合したあと感染により肛門括約筋に離断を生じることが十分に予測されること、本件の場合、XのY病院における分娩の他に肛門括約筋断裂の原因は考えられないこと、昭和59年4月30日、Y病院のC医師の診察の結果によれば、Xの肛門付近は、硬く、痛みが存するとされており、これは、感染の疑いが十分に考えられることが認められると判示しました。
そして、上記認定事実、診療の経過及び結果発生時期に照らすと、Xに生じた肛門括約筋断裂は分娩後の創部の感染によるものであると認めるのが相当であり、Xの肛門括約筋が離断した時期は、上記入院期間中における創部の感染時(同年4月30日頃)から相当期間経過後であると判断しました。
裁判所は、Y医師は、同年5月1日、C医師による前夜の診療録の記載(Xに肛門痛・肛門括約筋痛があり、肛門付近が硬く、痛みがある旨及び会陰創部にびらんが認められる)を見たうえXを診察し、同人の会陰創部にびらんを認めたが、その表皮の部分を寄せて、クレンメ2本で留めただけで、他にXの創部感染検査について何ら適切な処置をしていないことを指摘し、Y医師が、遅くとも右5月1日のX診察時には、注意深く観察すれば、Xの創部に生じた感染による肛門括約筋の離断発生の可能性を知りうる状況にあったのに、その兆候を見過ごし、深部までの感染の可能性を全く考慮せず、その場合に必要とされる傷口を切り開いて縫合する措置をとらず、単に膣の表皮をクレンメで止めただけで、放置していたのであるから、Y医師には、この点に注意義務違反があると認定しました。
裁判所は、以上より、Y医師はXに対し、経過観察義務についての債務不履行によりXが被った上記損害を賠償する義務があるとして、上記裁判所の認容額記載の支払を命じました。
その後、判決は確定しました。