広島地方裁判所昭和62年4月3日判決 判例タイムズ657号 179頁
(争点)
- Y医師の責任の有無
- 因果関係の有無(Y医師の過失とA死亡との間の因果関係の有無)
(事案)
昭和55年9月18日午前4時30分頃、A(当時60歳の女性)は自宅台所で突然倒れて昏睡状態に陥ったため、救急車でY医師の経営する外科医院(以下、Y医院という)に搬送され、同日午前5時40分頃収容された。収容時点でも、Aの意識は全く無く、嘔吐、尿失禁が見られ、また、その表情から激しい頭痛のあることが窺われた。その際、救急隊員はAの家族からの事情聴取に基づいて、Y医師に対し、台所で倒れて頭を打ったらしいと説明した。
Y医師はまず頭部打撲による硬膜下血腫を疑いつつ、血圧、血糖値、心電図等の検査を行ったが、打撲の所見がさしたるものでないところから、一応その疑いを解き、次に脳卒中(脳血栓、脳出血およびクモ膜下出血を含む脳血管障害の総称)との判断を持った。そこで、池田式脳血管障害鑑定表(16項目の評価点によって上記3者を鑑別するもの)を用いて判定を試みたところ、評価点の合計は、脳血栓、クモ膜下出血、脳出血の順位となったので、脳血栓を主位において診療に当たることとした(なお、上記鑑別表においては、項部硬直の有無と髄液検査の結果が結論に大きく影響するが、当日Aには項部硬直は認められず、また、腰椎穿刺による髄液検査は絶対安静の必要からこれを行わなかった)。
結局、Y医師はAの症病名としては、「脳卒中及び昏睡、後頭部打撲、高血圧症、糖尿病」と診断し、精神神経安定剤などを投与した。
翌9月19日、Aは意識を取り戻して、自ら頭痛を訴えるようになった。Y医師は、頭部・胸部及び腰部のレントゲン検査を行ったが、頭蓋骨その他に骨折を認めなかった。また、脳卒中の重要な鑑別項目である髄液検査を行うべく腰椎穿刺を試みたが、うまく刺入することができずこれを断念し、その後再度試みることはしなかった。
同月20日にもAの意識はあり、会話も一応可能で激しい頭痛を訴えた。しかし、同日午後8時30分ごろ、Aは意識不明に陥り、うわ事を言って暴れる(体動不穏)ようになり、時々嘔吐もあり、このような状態は翌21日にも続いた。
Aの子らは、Aの苦しむ様子を見て、度々Y医師に病態を尋ねたが、Y医師は、良くなったり悪くなったりを繰り返して良い方に向かうとの趣旨を述べた程度で、さほど立ち入った説明をしなかった。これらのことから、Aの子らは今後の推移に不安を抱き、21日夜、他の病院への転院を相談し、市民病院に転院の交渉をするなどした。
同月22日朝もAの状態は変わらず、Aの子らが手配した救急車によって市民病院脳神経外科に搬送され、午前10時10分ころ入院した。市民病院入院時のAの病状は、意識混迷して体動激しく、強い項部硬直があり、また、軽い右不全麻痺がみられた。同病院M医師は、直ちにCT検査を行って中等度の水頭症、シルビウス裂に少量の血腫を認め、次いで脳血管撮影によって中大脳動脈に破裂動脈瘤と軽度の血管れん縮を認め、脳動脈破裂によるクモ膜下出血と診断した。
同日午後2時ごろからAは手術(開頭のうえ動脈瘤をクリップして潰し、周囲に生じた血腫を出来るだけ除去するもの)を受け、手術自体は2時間余で順調に終わった。
同月23日にAの意識レベルはやや改善され、24日には意識清明(家族相手に多少の言葉が出て、自ら頭痛を訴える程度)となったが、なお体動不穏があり、言葉は不十分で、運動麻痺もみられた。同日、M医師は、手術後の血液成分除去のため腰椎穿刺を行った。
同月25日、再度脳血管撮影をしたところ、脳動脈の全般に著しい血管れん縮が認められた。そのころから、Aに傾眠、失語症が現れ、翌26日にはその程度が進み、麻痺も強くなり、27日には昏迷の状態に陥った。そして日を追ってさらに悪化し、同年10月9日には失外套すなわち手足を全く動かさず、呼んでも反応のないいわゆる植物様状態となり、その後約2年8か月にわたって全く好転することはなかった。Aがこの状態に陥った原因は、専ら脳血管のれん縮にある。
昭和58年6月2日、Aは長期植物状態経過中における合併症、特に尿路感染症による高熱等のため心不全の状態となり死亡した。
そこで、Aの子であるXらは、Y医師に対し、Aが死亡したのは、Y医師の誤診ないし転送義務違反によるものだとして、診療契約の債務不履行または不法行為に基づく損害賠償を請求した。
(損害賠償請求)
- 請求額:
- 2540万円
(内訳:逸失利益800万円+治療費100万円+慰謝料1250万円+葬儀・墳墓費用100万円+弁護士費用290万円)
(裁判所の認容額)
- 認容額:
- 653万8190円
(内訳:逸失利益161万0879円+慰謝料350万円+治療入院費53万9685円+葬儀費用28万7630円+弁護士費用60万円。相続人複数につき端数不一致。)
(裁判所の判断)
1.Y医師の責任の有無
この点について、裁判所は、Aが市民病院において腰椎穿刺による髄液検査を現に受けたのであるから、Y医院においてそれが不可能であったとは思われず、Y医師が9月19日の一回の試みだけでこれを断念したのは早計のそしりを免れないと判示しました。また、項部硬直についても、それがクモ膜下出血に通常伴う症候であること、市民病院においては9月22日に強い項部硬直が認められたこと、半昏睡の状態では却って項部硬直が不明瞭となり、意識が改善された時点で明らかになる場合もあること等に照らすと、少なくともAの意識がやや回復した9月19日、20日ごろにはそれが発現し、注意深く観察すればこれを発見し得たものと推認しました。そして、髄液検査の結果(血性髄液)と項部硬直とは、ともにクモ膜下出血の診断にとって重大な要素であり、池田式脳血管障害鑑別表においても、脳血栓、脳出血との鑑別項目として甚だ高い評価点が与えられているのであるから、もしY医師が早期にこれらを検査、確認していれば、容易にクモ膜下出血との診断に達し得たはずであり、医師として上記検査、確認の義務を尽くさなかった点において、過失による債務不履行の責を免れず、不法行為上の過失の存在も肯定すべきものであるとしました。
裁判所は、また、Aの入院時における諸症状は、それ自体、医師にとってクモ膜下出血の疑いを抱くに足りるものであったとみられるし、現にY医師はこれを含む脳血管障害(脳卒中)との判断は得たのであるから、重要な鑑別項目である髄液検査の結果が得られない以上、クモ膜下出血の可能性をも十分に考慮し、そのための諸検査設備を有する専門病院に直ちに転送して、確定診断や手術の要否判断を委ねるべきであったと考えられ、上記転送をしなかったことも、過失による債務不履行と言える(不法行為上の過失も否定できない)と判断しました。
2.因果関係の有無(Y医師の過失とA死亡との間の因果関係の有無)
この点について、裁判所は、脳動脈破裂患者の臨床症状の程度について広く用いられている、ハントとコスニックによる症度分類のグレードと手術時期、手術成績の関係に関する証拠を引用し、数値を比較した上で、AがグレードⅡまたはⅢの状態(第二病日から第三病日夜まで)で手術を受けることができなかったことにより、その社会復帰の蓋然性は相当程度失われた(換言すれば、上記状態で手術を受け得なかったことが、社会復帰不能のうちでも最悪の場合である長期植物状態化とその後の死亡という結果に、無視できない原因力を与えた)と言わざるを得ないと判示して、Y医師の債務不履行ないし不法行為と、Aの植物状態化及びその結果としての死亡との間の、相当因果関係を肯定しました。
そして、上記の各数値の比較に加えて、Aが発症当時60歳であったこと(年齢60歳以上かそれ以下かを、手術適応の有無判定の一要素とする見解もみられる)や、手術後の救命率ないし予後の良否は、基本的には出血の量自体によって大きく左右される(その旨の指摘は多い)ところ、Aには相当量の出血が見られたこと(M医師証言)その他発症後死亡に至る経過一切に照らして、Y医師の債務不履行ないし不法行為による損害賠償責任の関係においては、その起因力(因果関係の割合)を35パーセントと評価し、その限度においてY医師の損害賠償責任を肯定するのが相当であると判断しました。
以上より、上記の裁判所の認容額の支払いを命ずる判決が言い渡されました。
その後、判決は確定しました。