東京地方裁判所平成18年7月28日判決 判例タイムズ1253号222頁
(争点)
- Y病院担当医師の過失の有無
- Xの症状とYの過失との因果関係の有無
- Xの損害額
(事案)
平成4年ころから、X(昭和12年生まれの男性・手術当時年商約530億円の株式会社の代表取締役社長)は、左眼の視界のゆがみを感じるようになり、医師の診察を受けたところ、網膜の上に膜が付着しているため視界にゆがみが生じているが、まだ手術が必要な状態ではないため経過観察とするとの診断を受けた。
平成14年8月ころ、Xは、左眼の視界のゆがみが原因で疲れやすくなったため、同月28日に、左眼の視力低下を訴えてO眼科医院にて診察を受けたところ、視力は右の1.2に対して左は0.9であり、左眼の黄斑部網膜上膜形成症が進行していると診断され、網膜の上に形成された膜を除去する手術を行うため、Y学校法人が設置・運営するY大学医学部附属Y病院(以下、Y病院という。)のH医師(眼科部長)を紹介された。
Xは、同月31日に、Y病院を受診し、H医師及びN医師の診察を受けたところ、視力は左右ともに1.2であったが、H医師は、Xの左眼の黄斑部網膜上膜形成症について網膜の上に形成された網膜を取る手術を行い、これにより視機能回復を図ること、ただし、この手術をすると白内障が術後進行しやすいので白内障の手術もした方が良い旨の診断をした。
Xは、Y病院に入院し、同年11月1日、H医師の執刀のもと、Xの視機能回復のための左眼の黄斑部網膜上膜形成症に対する黄斑上膜手術(硝子体切除術・膜処理を含む)並びに白内障に対する超音波水晶体乳化吸引術(PEA)及び人工レンズ挿入術(以下、本件手術という)が実施された。
翌2日、Xが眼帯をとると、Xの左眼は、かすんで殆ど見えず、視界は常に薄暗い状態となった。また、Xの虹彩は手術前は茶色であったのが、手術後には灰色に変色していた。
同月5日、H医師は、Xに対し、角膜が濁っており、濁りがある間は眼が見えない、角膜の内皮が痛んでしまっていて、ポンプ作用がうまくいかず角膜に水がたまっている、その症状は機械的な刺激で起こることもあるが、原因が分からない旨を説明した。
同月13日、Xは、Y病院を退院したが、退院時の視力は測定されておらず、入院中の左眼の状態にはそれほど変化がなかった。退院後もXは、Y病院に通院し、H医師の診察を受けていたが、左眼の視力は回復しなかった。
そこで、H医師は、Xに対し、視力回復のため、角膜移植を受けることを勧め、その実績があるというI病院のA医師を紹介した。
平成15年3月4日、Xは、I病院に入院し、同月6日、同病院のA医師の執刀により、左眼の角膜移植手術(以下「角膜移植手術」という。)を受け、手術経過自体は良好であったものの、視力の回復は思わしくないまま、同月14日に退院した。
同年4月5日、Xは、H医師の診察を受けた。H医師は、角膜移植手術によって角膜が透明になって奥の網膜の状態が見えるようになったが、左眼の網膜には本件手術中に生じた何らかの異常な刺激が原因で再び膜が生ずるなどしており、再々手術が必要であることが判明した。また、再々手術は、数ヶ月は待つ必要がある等の説明をした。
同年5月24日、Xは、Y病院を受診し、H医師の診察を受けたところ、網膜の増殖が予想以上に進んでおり、除去手術が必要であるとの診断を受けた。そこで、Xは、Y病院に入院し、同年6月13日、H医師の執刀により、左眼の硝子体切除術(膜処理を含む。以下「再々手術」という。)を受けたが、左眼の状態は、光は明るく感じるようになったものの、見えづらさには変化がないまま、同月20日に退院した。
再々手術の結果、左眼の薄暗さは改善されたものの、物が薄ぼんやりとしか見えず、字は全く読めないという状態であった。
平成16年1月13日、Xが、Y病院を受診したところ、H医師は、左眼の視力回復は望めない、左眼の黄斑部に見えない点がかかっているので見えない、視界のゆがみは更なる手術でとれるかもしれないが、この見えない部分が問題である旨を説明した。そして、H医師は、Xの症状の原因としては、本件手術における薬の間違い、膜外しの失敗及び強烈な光を眼に当てすぎたことが考えられるが、消去法で考えると、薬の間違いだと思う旨を説明した。
同年、3月19日、Xが、K大学病院を受診したところ、右眼の視力は1.2であるが、左眼の視力は0.08で矯正不能となっていると診断された。
また、Xは、同年4月12日、K大学病院を受診したところ、左眼は黄斑部機能障害であり、視力は0.09でそれ以上の矯正は不能である、ゴールドマン動的視野検査で中心から鼻側への暗点及びphotopic ERGでα波の減弱を認める状況であると診断された。
Xは、本件手術後、頑固な頭痛等に悩まされるようになり、それを緩和するため、鍼灸、カイロプラクティック、指圧等に通っていた。
そこで、Xは、Y学校法人に対し、本件手術において、担当医師が、誤って薬剤を眼内に混入させる等の過失があり、それにより、Xの左眼に視力低下等の症状を発生させたとして、債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償の請求をした。
(損害賠償請求)
患者の請求額 : 合計9018万5199円
(内訳 : 治療費自己負担分1571万3583円+入院雑費4万5000円+通院交通費56万4824円+後遺障害による逸失利益4886万1792円+慰謝料2000万円+弁護士費用500万円)
(裁判所の認容額)
裁判所の認容額 : 合計1970万3853円
(内訳: 治療費235万3033円+入院雑費3万6000円+通院交通費2万2620円+後遺障害による逸失利益779万2200円+慰謝料800万円+弁護士費用150万円)
(裁判所の判断)
1.Y病院担当医師の過失の有無
この点について、裁判所は、術後すぐに、手術を受けた左眼に大きな異常が生じていることは、術前に合併症として予想されていた症状が術後に発生したなどの特段の事情がない限り、手術の際に、何らかの不手際があったことを推認させるものであり、本件の場合、上記のような特段の事情は認められないと判示しました。
裁判所は、また、本件手術の執刀に当たったH医師自身も、I病院に宛てた紹介状・診療情報提供書の中で、Xの症状の原因としては、術中の機械的刺激や薬剤の迷入などが考えられると記載し、また、Xの症状の原因としては、本件手術における薬の間違い、膜外しの失敗及び強烈な光を眼に当てすぎたことが考えられるが、消去法で考えると、薬の間違いだと思う旨をXに説明しており、術中の何らかの過失を認めていると判示しました。
裁判所は、さらに、Yも、本件訴訟の中で、過失の存否について積極的に争わないばかりか、眼内に局所麻酔などを誤って混入させた可能性があると認めており、このようなYの態度も考え合わせると、本件においては、過失の態様を特定するのは困難であるものの、Y担当医師であるH医師またはN医師には、上記H医師が説明する3点のいずれかの過失があると認められると判断しました。
2.Xの症状とYの過失との因果関係の有無
裁判所は、術前においては、Xの左眼の視力は1.2であり、視界にゆがみがあったものの、日常生活をほぼ不自由なく送っていたことからすると、本件手術を契機として、Xの左眼の状態は急激に悪化したと認められ、また、その症状は、術前に生じていた症状とは大きく異なるものであると判示しました。
裁判所は、さらに、本件手術の執刀にあたったH医師自身も、再手術後に、Xに対し、左眼の網膜には本件手術中に生じた何らかの異常な刺激が原因で再び膜が生じるなどしている旨述べており、H医師も、Xの症状の原因が本件手術であることを認めているとしました。
裁判所は、以上の点からすれば、Xの症状は、本件手術におけるYの過失を原因として生じたものであると認められると判断しました。
3.Xの損害額
この点について、Yは、I病院入院・再手術につき発生した治療費のうち、室料負担額50万円については、個室管理の必要性が明らかではなく、損害とは認められないと主張をしました。
それに対して、裁判所は、I病院では、海外からの角膜輸入に要する費用を室料に含めて請求していること、角膜移植に際しては、国内の角膜を移植する場合と、海外からの輸入の角膜を使用する場合があるところ、国内における角膜の調達が困難であることから、これを用いようとすると4年以上の順番待ちを強いられるのに対し、輸入角膜を使用すると、早期にかつ予定した時期に手術を行うことができ、この事情の下に、I病院では国内の角膜を使用するか、輸入角膜を使用するかを患者の選択に委ねていることが認められると判示しました。
裁判所は、このような事情に加え、大学病院であるY病院においてこれを行わなかったことからも明らかなように、我が国では角膜移植を行う医療機関が限定されていること、Xのように突然に視力が大幅に低下し、その回復には角膜移植が必要とされた患者としては、1日も早く移植術を受けることを希望することは無理からぬことであり、その希望を実現するには、輸入角膜の使用を選択し、これに伴って高額の室料負担という病院側の示す条件を受け入れざるを得なくなるのが通常の事態であると評価できる(なお、Yは、このように評価することについて医療保険制度上の問題点を指摘するが、損害賠償義務の範囲を定めるに当たっては、そのような公的制度の内容にかかわらず、それが被害者にとって通常の出費である以上、そのような出費をすることが公序良俗に反する事情が認められない限り、これを損害の範囲と認めるべきであり、本件において上記室料の負担が公序良俗に反するような事情は見当たらない。)と判断しました。
また、Yは、Y病院での再々手術(第2回入院)の際の室料27万9000円について、個室管理の必要性が明らかではなく、Yの過失との因果関係のある損害とは認められないとの主張をしました。
これに対して裁判所は、この第2回入院は、他ならぬY病院担当医師の過失によってXに生じた損害回復のための措置として必要になったものであり、加害者の立場にあるY病院としては、医療機関として、患者の回復に必要なできる限りの給付をすべきであって、このような目的での入院にかかった費用については、Yが負担すべきものであるとしました。裁判所は、また、Xの社会的地位に鑑みても、入院時に個室に入室することは必要であると認められ、しかも、本件手術当時、Y病院がXの社会的地位を認識していたことも考え併せると、その費用は相当な範囲の損害というべきであるとしました。
さらに、裁判所は、鍼灸、カイロプラクティック及び指圧にかかった費用がYの過失と相当因果関係のある損害といえるのかを検討しました。
裁判所は、まず、Xに生じたとする頭痛の存否及びその内容を検討しました。
裁判所は、Xの頭痛の症状が、本件手術後に新たに発症したものであること、また、その症状も、左眼の視力低下に由来することを強くうかがわれるものであることからすれば、その主たる原因は、左眼の視力低下にあるというべきであり、Xの頭痛と、本件手術による視力低下との因果関係は認められると判示しました。
裁判所は、上記の判断を前提に、鍼灸、カイロプラクティック及び指圧が、Xの頭痛の症状に対して有効であるかにつき検討しました。
裁判所は、K大学病院神経内科のN医師作成の診断書においては、その有効性につき、左弱視に伴う緊張型頭痛に対して、マッサージ、鍼灸、カイロプラクティックが有効であると考えられるとされていること、N医師の書面尋問の回答内容、Xの供述内容などからすれば、鍼灸、カイロプラクティック及び指圧が、Xの頭痛の症状に対して有効であると認められると判断しました。
ただし、鍼灸、カイロプラクティック及び指圧が、将来に渡っても有効であるのかについては、証拠上明らかではないとして、将来の鍼灸、カイロプラクティック及び指圧費用については、Yの過失と因果関係ある損害とは認められないと判断しました。
そのうえで、裁判所は上記「裁判所の認容額」の限度でXの請求を認め、その後、判決は確定しました。