東京地方裁判所 平成4年7月8日判決 判例時報1468号116頁
(争点)
- Y医師の債務不履行又は注意義務違背の有無
- 損害賠償義務の範囲
(事案)
昭和62年1月下旬頃、妻X1と夫(X2)との間の長男B(当時三歳)が風疹に罹患したが、その後、Bと同居していたX1にも、発熱などの症状が現れた。X1は、妊娠初期に妊婦が風疹に罹患した場合には、先天性異常児が出生する危険性が高いことを知っていたので、妊娠した可能性を心配して、同月29日、Y医師(産婦人科医)が開設するY医院を訪れて、Y医師の診察を受けた。
Y医師は、妊娠の有無については時期が早いために判定できなかったが、風疹については、血液を採取してHI検査(外部委託)を実施する手配をし、X1に対して、10日後位に再検査のために来院するよう指示した。
X1は、同年2月9日、再診のためにY医院を訪れて、Y医師の診察を受けた。Y医師は、X1が妊娠していることを確定的に診断し、X1にその旨を告げるとともに、前回のHI検査では抗体が検出されなかったことを説明したうえ、2回目のHI検査を実施する手配をした。
X1は、同月12日、腹部、首筋等を中心として発疹が現れているのを発見して驚き、受診予定日ではなかったが、Y医院を訪れてY医師の診察を求めた。Y医師は、主として顔面部を中心として発疹の有無を目視で検査し、咽頭が充血していることや体温が37度であることを認め、血液を採取してそれまでとは異なる業者に委託して3回目のHI検査を実施する手配をしたうえ、X1に対して、これまでに実施したHI検査では抗体が出なかった旨を説明し、また、後日Y医院に電話をして3回目の検査の結果を確認するよう告げた。
そこで、同月14日、X1は、Y医院に電話をし、発熱と発疹がほぼ治った旨をY医師に告げた。そして、先に実施した3回目のHI検査の結果は、当時既に抗体価が8であることが判明していたが、Y医師は、それまでの実施したHI検査の結果では必ずしも明確な判断はできないものとして、X1に対して確定的な診断は示すことなく、念のために前回の検査日から1週間後の同月19日に4回目のHI検査を実施するから来院するように告げた。しかし、X1はY医師の指示を誤解して、電話した当日から1週間後の同月21日に4回目のHI検査を受ければよいものと考えていた。
X1は、上記誤解のため、同月19日の診療時間にはY医院には来院しなかったが、下腹部痛、少量の性器出血等の切迫流産の兆候がみられたため、同日午後7時40分頃になって、Y医院を訪れ、応急処置を受けたうえ、治療のために同月20日から同月27日までY医院に入院した。
Y医師は、この間、切迫流産の予防のための処置に追われて、4回目のHI検査を実施することになっていたことを想起することができず、結局、その後も胎児が出生するまでにはX1の風疹罹患の有無についての検査・診断を行わなかったし、X1に対して、風疹罹患の有無についてなんら確定的な診断結果を告げることのないままになった。
X1は、昭和62年2月19日以来、Y医師からなんらの指示や風疹罹患の有無についての説明もなかったことから、自分が風疹に罹患しているものとは考えず、また、生まれる子が先天性風疹症候群児であろうとは予想もしないままに、同年10月13日、Y医院において、Aを出産したが、Aは、体重1590gの未熟児で、精神運動発達遅延、両眼白内障、聴覚障害、摂食障害等の障害を有していて、重度の先天性風疹症候群と診断された。
Y医師は、A出生後の同年11月11日、X1に4回目のHI検査を実施したが、その検査結果によれば、抗体価が128であって、X1が風疹に罹患していたものであることが事後的に確認された。
X1及びX2は、Y医師が4回目のHI検査の実施を失念し、先天性異常児の出生する危険性について説明や助言をしなかった結果、人工妊娠中絶の機会を奪われ、Aを出産するに至ったとして、Y医師に対して、債務不履行責任または不法行為責任として損害賠償を請求する訴訟を提起した。
(損害賠償請求)
原告ら(出生した子の父母)の請求額 : 父母合計5500万円
(内訳:損害合計額8659万8510円(医療費等41万8510円+付添費用5838万円+慰謝料2000万円+弁護士費用780万円)のうちの一部請求(5000万円+弁護士費用500万円))
(判決による認容額)
裁判所の認容額 : 父母合計990万円
(内訳:慰謝料900万円+弁護士費用90万円)
(裁判所の判断)
1.Y医師の債務不履行又は注意義務違背の有無
この点につき、裁判所は、まず、妊婦が妊娠初期に風疹に罹患した場合にはかなりの高率で先天性異常児が出生する危険性があるものであってみれば、その妊婦又は夫にとっては、出生する子に異常が生じるかどうかは切実かつ深刻な関心事であることは当然であって、妊娠時と近接した時期に風疹に罹患したものとの疑いを持つ妊婦から風疹罹患の有無について診断を求められた産婦人科医としては、適切な方法を用いて能う限り妊婦の風疹罹患の有無及びその時期を究明して、その結果を妊婦らに報告するとともに、風疹罹患による先天性異常児の出生の危険性について説明する義務を負うものというべきであり、先天性風疹症候群児の出生を予防する途はなく、ここで産婦人科医のなし得ることは単に診断の域を超えるものではないとはいえ、生じ得べき先天性風疹症候群の重篤さに照らすと、その判断には最大限の慎重さが要求されるところであると判示しました。
裁判所は、その上で、X1は、Y医院での初診当時から、Y医師に対して、昭和62年1月23日頃に同居の長男Bが風疹に罹患したことを告げ、感染の可能性のある時期及び機会を明らかにして、風疹罹患の有無の診断を求め、また、同年2月12日には腹部、首筋等を中心とした発疹の症状を訴えてY医院に赴いているのであるから、ここでのY医師の診断義務は、単に妊婦に対する一般的な健康診断の実施に尽きるものではなく、X1が風疹に罹患しているかどうかを具体的に診断することにあると判示しました。
さらに裁判所は、Yは、同年1月29日、同年2月9日及び同月12日の3回にわたり、臨床症状の診察等とともに、HI検査を実施したが、これによっては風疹罹患の有無についての確定的な診断を下すことなく、同月19日に予定した4回目のHI検査の結果にまでこれを留保していたY医師の判断自体はその限りにおいて正当であると判示しました。
しかし、Y医師は、切迫流産の予防のためにたまたま同日にY医院に入院したX1に対する処置に追われて、予定した4回目のHI検査を実施せず、X1に対して、風疹罹患の有無についてなんら確定的な診断結果を告げることもないままになってしまったというのであり、この点において、Y医師が診断義務を尽くさず又はこのような場合における産婦人科医として尽くすべき注意義務に違背したものというべきことは明らかであると判断しました。
2.損害賠償義務の範囲
この点につき、裁判所は、生まれる子に異常が生ずるかどうかについて切実な関心や利害関係を持つ子の親として、重篤な先天性異常が生じる可能性があるとわかったとき、それが杞憂に過ぎないと知って不安から開放されることを願い、最悪の場合に備えて障害児の親として生きる決意と心の準備をし、ひいては、妊娠を継続して出産すべきかどうかの苦悩の選択をするべく、一刻も早くそのいずれであるかを知りたいと思うのが人情であると判示しました。そして、裁判所は、XらがYに求めたのも、このような自己決定の前提としての情報であり、債務不履行又は不法行為によってその前提が満たされず、自己決定の利益が侵害されたときには、法律上保護に値する利益が侵害されたものとして、慰謝料の対象になるものと解するのが相当であると判示しました。
裁判所は、しかしながら、Xらのその余の請求は、これと同一に論じることはできないとしました。裁判所は、すなわち、先天性風疹症候群児の出生が危惧されるとき、社会的事実として人工妊娠中絶が行われる例があることは否定できないところであって、本件においても、Xらが人工妊娠中絶を行っていれば、Aの養育のために医療費や付添料等の支出を免れたであろうことは確かであるとしました。
裁判所は、しかし、妊婦が風疹に罹患した場合には、人工妊娠中絶の方法による以外には先天性風疹症候群児の出生を予防する途はないが、優生保護法(平成8年の改正により、現在は「母体保護法」に改称)上も、先天性風疹症候群児の出生の可能性があることが当然に人工妊娠中絶を行うことができる事由とはされていないし、人工妊娠中絶と我が子の障害ある生とのいずれの途を選ぶかの判断は、あげて両親の高度な道徳観、倫理観にかかる事柄であって、その判断過程における一要素たるに過ぎない産婦人科医の診断の適否とは余りにも次元を異にすることであり、その間に法律上の意味における相当因果関係があるものということはできないと判示しました。
裁判所は、また、先天性障害児を中絶することとそれを育て上げることとの間において財産上又は精神的苦痛の比較をして損害を論じることは、およそ法の世界を超えたものといわざるを得ないと判断しました。
以上より、裁判所は、上記裁判所認容額の限度においてXの請求を一部認容しました。その後、判決は確定しました。