東京地方裁判所 平成25年11月26日判決 判例時報2221号62頁
(争点)
- Yの債務不履行責任の有無
- X1の逸失利益について
- 消滅時効が完成しているか否か
(事案)
A子はA男と昭和27年に婚姻し、妊娠したので、昭和28年3月、社会福祉法人であるYが開設する病院(以下、Y産院という)を訪れ、分娩出産のために入院した。遅くともこのころまでに、A夫婦とYとの間で、Yにおいて、A子が新生児を安全に分娩することを助け、生まれた新生児を看護することを内容とする分娩助産契約が締結された。
昭和28年3月30日午後7時17分、A子はY産院の分娩室において、新生児を分娩し、その直後に分娩した新生児を示されて、男児であることを確認した。
Y産院では、分娩された新生児は、分娩後直ちに、沐浴担当助産師が新生児を運んで沐浴させ、その後、異なる担当者が、身体測定後に足の裏に硝酸銀で母親の名前をひらがなで記入し名前が書かれたネームバンドを手首又は足首に取り付ける運用がなされていたところ、A子が分娩した新生児も、分娩後直ちに、沐浴担当助産師により運ばれ、沐浴を受けた。沐浴担当者に引き渡され沐浴を受けた。
A子が分娩した13分後の同日午後7時30分、同じくY産院に入院していたB子は、Y産院の分娩室において、新生児を分娩し、その直後、分娩した新生児を示されて男児であることを確認した。B子が分娩した新生児も、A子が分娩した新生児と同じく、分娩直後に沐浴担当助産師により運ばれ、沐浴を受けた。
分娩後、A子の下に、硝酸銀でA子の名前の書かれた新生児が返された。このとき、新生児はA子が用意した産着とは異なる産着を身につけていた。他方、B子の下にも、沐浴および身体測定を終え、硝酸銀でB子の名前が書かれた新生児が返された。
当時のY産院において、沐浴担当者と名前を書く担当者は別れており、分娩後、沐浴して、名前を記入するまでに要する時間は10分程度であった。
母親の下に返された2人の新生児の足の裏には、硝酸銀で母親の名前が書かれており、名前は退院まで消えることはなかったため、母親の下に新生児が返されてからは、仮に新生児同士が取り違えられても、これに気付かずに取り違えられたままになるという可能性はなかった。また、分娩後は母親が用を足すときと退院指導のときを除いては、母子が離れることはなかった。
A夫妻はY産院から連れ帰った新生児をN男と名付け、両者間の長男として養育し、B夫妻はY産院から連れ帰った新生児をX1と名付け、両者間の四男として養育した。
A夫妻には他に実子3名(X2ないしX4)がおり、B夫妻の実子としては、他に2名がいる。
A夫妻およびB夫妻は平成19年10月7日までにいずれも死亡した。
A子は生前、出産の際、長男のために用意した産着と新生児が来ていた産着が異なることに違和感を持っており、このことをX2らに伝えたことがあった。また、A子は、親戚や知人からN男の容姿や性格が他の兄弟と似ていないと幾度か言われたことがあり、その度に不快な思いをしていた。
X2ら3名は、上記のような経緯および認知症となったA男の介護にN男のみが消極的であったこと等の事情から、両親の死後、X2らは、N男と両親との間に血縁関係があるのか疑うようになった。
そこで、平成20年、X2ら兄弟3名は、N男を被告として、N男とA夫婦両名との親子関係不存在確認を求める別件訴訟1を提訴した。この訴訟の中で、東京家庭裁判所の嘱託により、S株式会社によって、DNA鑑定が行われた。その結果、N男とX2ら3名との間に父又は母を共通とする生物学的な兄弟関係が存在しないことが明らかにされた。上記鑑定結果は、平成21年1月15日付鑑定書により、この頃、X2ら3名に知らされた。
鑑定結果を知らされたX4は、真実の兄を探すべく、Y産院に対して、N男が生まれた昭和28年当時の分娩台帳等の閲覧を請求したり、弁護士法上の照会請求をしたものの、これらを拒否されたので、X4は平成23年8月11日、東京地方裁判所にY医院が保有する分娩台帳の保全のため証拠保全の申立てを経て、分娩台帳に基づき、X1を探し出した。
X1の協力を経て、X2ら3名とX1との間に全同胞関係の有無に関するDNA鑑定を行ったところ、平成24年1月6日、「X2ら3名とX1との間に血縁関係および父系遺伝関係は存在しない」とするより「X2ら3名とX1との間に全同胞関係および父系遺伝関係が存在する」としたときの総合肯定確率は99.99999999999996%との結果が示され、X2ら3名とX1との間に生物学的な全同胞関係が存在すると極めて強く推定できることが判断された。
X1は、上記鑑定結果を受けて、平成24年3月21日、X1とA夫婦両名との間の親子関係の存在確認およびX1とB夫妻との間の親子関係不存在確認を求める別件訴訟2を提起し、平成25年1月28日、上記各請求につき認容判決を受け、確定した。
X1はB夫妻の四男として育てられたが、X1が2歳のときにB男が亡くなり、その後はB子が生活保護を受けながら女手一つでX1ら3人の子(三男は早逝)を育てた。その生活は楽なものではなく、家族4人が6畳のアパートで生活し、当時同級生の家庭に普及しつつあった家電製品が何一つないという状況であった。兄2人は、中学卒業後、すぐに働き始め、X1も、家計を助けるため、中学卒業とともに町工場に就職した。その後は、X1は、自分で学費を捻出し、働きながら定時制の工業高校に進学し、卒業したものの、大学進学は望むべくもなかった。町工場を退職後は、配送トラックの運転手として働くようになり、勤務先を変えつつ、現在もトラックの運転手として働いていた。
他方、A夫婦は教育熱心な上、経済的なゆとりもあり、A夫婦の下で養育されたN男およびX2ら3名はいずれも私立高校を経て、大学または大学院に進学し、X2ら3名は一部上場企業に進学した。
そこで、X1~X4は、X1がY産院で取り違えられ、真実の両親と異なる夫婦に引き取られ養育されたのは、Yの分娩助産契約上の債務の不履行によるものであるとして、損害賠償請求訴訟を提起した。
(損害賠償請求)
原告らの請求額:(取り違えられていた実の子とその実弟3名) 合計2億5564万円
(内訳:取り違えられていた実の子の慰謝料1億円+取り違えられていた実の子の逸失利益4600万6400円+子の両親の慰謝料2名合計1億円(子と実弟3名が相続)+実弟固有の慰謝料3名合計1125万円の合計額(逸失利益については一部のみの請求))
(判決による認容額)
裁判所の認容額:合計3800万円
(内訳:取り違えられていた実の子の慰謝料3000万円+子の両親の慰謝料2名合計1000万円のうち、800万円(法律上は、実の子と実弟3名の他に戸籍上の子もいるため、合計5名が相続するため、実の子と実弟3名は200万円ずつ相続する))
(裁判所の判断)
1.Yの債務不履行責任の有無
裁判所は、まず、本件取り違えの事実の有無について、A子が昭和28年3月30日にY産院で分娩した新生児はX1であり、B子が同日、Y産院で分娩した新生児(N男)と取り違えられたと認定しました。
その上で、裁判所は、Yの債務不履行責任について、A夫婦とYとの間で締結された分娩助産契約はその性質上、Yが、新生児を他の新生児と取り違えることなく、真実の両親に引き渡すことを内容とする債務を含むものと解されると判示しました。
上記分娩助産契約上の債務(新生児を真実の両親に引き渡すべき債務)がX1との関係でも独立して成立しているかどうかについて、裁判所は、上記債務が無事履行されるかどうかについては、分娩の主体である母親および胎児の父親はもとより、新たに出生する新生児も極めて重要な利害関係を有していることは明らかであると判示しました。そして、裁判所は、新生児は出生した時点で独立した法主体たり得るのであるから、新生児のこのような地位、立場に鑑みると、新生児は、分娩助産契約の単なる客体とされるにとどまらず、契約上の債権債務の主体として遇されてしかるべきであるとしました。
裁判所は、したがって、Yが分娩助産契約上負担する上記債務(新生児を真実の両親に引き渡すべき債務)は、両親に対する関係だけでなく、新生児に対する関係でも、独立した債務として発生し併存すると判断し、Yは、取り違えについて、A夫婦両名およびX1に対して、それぞれ独立して債務不履行による損害賠償責任を負うと判示しました。
2.X1の逸失利益について
X1は、本件取り違えがなければ大学卒の学歴を得た蓋然性が極めて高いとして、賃金センサスに基づく大卒者の平均賃金による生涯賃金との差額の50%に相当する4600万円逸失利益(訴訟での請求額は4439万円)を主張していました。この点につき裁判所は、A夫婦とB夫婦の下での生育環境の格差には歴然たるものがあり、X1は、本来、真実の両親であるA夫婦の庇護の下で経済的に不自由のない環境で養育され、望みさえすれば大学での高等教育を受ける機会を与えられるはずであったのに、誤ってB夫婦の下に引き取られてしまった結果、困窮した生活の中で、およそ大学進学を望めるような環境になかったことは明らかであると判示しました。
しかし、裁判所は、本件取り違えがなかったとしても、X1が大学卒業の学歴を得ることができたかどうかは、必ずしも明らかではないといわざるを得ず、X1の主張する逸失利益をそのまま認めることはできないと判示しました。
その上で、家庭環境の違いは、本件取り違えによって生じた重大な不利益であり、真実の親子としての交流を断たれたという情愛の問題とは別に、極めて甚大な精神的苦痛をX1に与えるものであったと判断し、X1が逸失利益の損害として主張する内容は、慰謝料の算定要素として十分に考慮するのが相当であると判示しました。
3.消滅時効が完成しているか否か
この点につき、裁判所は、本件取り違えは、A子がX1を分娩し、B子がN男を分娩した昭和28年3月30日又はその直後に発生したと認められるところ、その後、A夫婦およびX1において、本件取り違えを理由とする損害賠償請求権を行使すること自体に法律上の障害があったということはできないと判示しました。
裁判所は、しかし、新生児の取り違えが生じた場合、当該新生児自身はもとより、その両親であっても、その場で取り違えの事実に気付くことはほとんど期待できず、血液型の背馳が明らかになってそれを契機にDNA鑑定を試みるなどの偶然の機会に事実が判明することはあっても、それまでに既に相当程度の年月が経過しているのが通常である上、そのような契機がないまま数十年にわたって見過ごされることも十分考えられる(本件が正にそのような場合である。)と判示しました。
裁判所は、加えて、新生児の取り違えを理由とする損害賠償請求権は、当該取り違えが起きるのと同時に、その全損害額が確定されたものとして損害賠償請求権が発生すると解するのは適切でなく、真実の親子関係を引き離された年月の進行とともに、同一性を失わない単一の損害が日々拡大していくという特殊な性格を有していると判示しました。
その上で、裁判所は、このような事情に鑑みると、本件取り違えの発生と同時に、損害賠償請求権の行使は観念的に可能となったとはいえ、客観的に見て、その行使を合理的に期待出来ないことは明らかであり、また、上記のような損害の特殊な性格に照らしても、本件取り違えの発生時を時効起算点と解することは適切でないと判断しました。
そして、裁判所は、本件の事実関係の下で、A夫妻が本件産院において真実の子でない新生児を引き渡されたという事実を関係者が客観的に認識し得たといえる時期は、X2ら3名とN男との間に父又は母を共通とする生物学上の兄弟関係を否定するDNA鑑定の結果が示された平成21年1月15日であり、当該取り違えの相手がX1であるという事実を客観的に認識し得たといえるのは、X2ら3名とX1の生物学上の全同胞関係を肯定するDNA鑑定の結果が示された平成24年1月6日であると判断しました。
裁判所は、したがって、本件取り違えを理由とする債務不履行による損害賠償請求権の消滅時効は、X2ら3名については平成21年1月15日、X1については平成24年1月6日が起算点になると解するのが相当であり、本件では、いまだ消滅時効は完成していないというべきであると判示しました。
以上より、裁判所は、Xの請求を上記裁判所認定額の限度において認容しました。その後、判決は確定しました。