大阪高等裁判所 平成10年9月10日判決 判例時報 1689号84頁
(争点)
- 患者の手術について麻酔担当医に過失はあったか
- 患者及び患者両親の損害
(事案)
患者A(男児、手術時1歳11ヶ月)は、昭和60年7月15日、Y1医師(B外科の名称で医院を経営する開業医)により両鼠径部の硬結(先天性ヘルニア)と診断されたが、その後、次第に硬結が増大し、頻回に硬結が認められるようになったため、Y1医師から根治術が必要と診断され、その手術を受けることになった。
Aは昭和61年4月12日午前9時20分ころ、X1(患者の母)に付き添われてB外科に入院した。
Y1医師は、幼児のヘルニアを含むヘルニアの麻酔手術経験が多数例あるところ、B外科で麻酔を要する手術を施行する場合には、本件以前から、大学の後輩にあたり、当時C大学医学部付属病院の第二外科(心臓血管外科、胸部呼吸器外科、消化器外科等)の助手として勤務していたY2医師に依頼して麻酔担当医として手伝ってもらっていた。Y2医師に手伝ってもらっていた手術の中には、ヘルニアの手術も多数あった。本件手術も全身麻酔による手術であったことから、Y1医師は、予めY2医師に麻酔担当医としての補助を依頼し、Y2医師からの承諾を得ていた。
Aの入院後、看護師がAの体重及び身長を測定しようとしたところ、Aが嫌がったため測定はなされず、体重だけはX1が自宅で測った結果(13キログラム)を看護師に伝えた。また、Aは看護師により、体温、脈拍、血圧の各測定を受けたが、血圧測定の際、泣いて嫌がった。
Y1医師は、ヘルニア手術を行う場合には、手術の3、4日前に必ず診察し、聴診器で患者の全身状態を調べ、心電図と、赤血球、白血球、ヘマトクリット、血液像、血小板等の一般検血を行っていたが、Aについてはそのような一般検査を行わず、また、心電図は手術の際のモニターにより判断できると考え、術前検査としては行わなかった。
Aについて作成された診療録中の麻酔記録裏面の「麻酔手術前記録」記載欄において、その「一般状態」の「体重」欄には13キログラム、「体温」欄には、36.7度、「脈搏数」欄には120、「血圧」欄には「102/」とそれぞれ記入されているが、「既往歴・自覚症(心肺疾患留意)」、「栄養・体格」、「身長」、「呼吸数」、「口腔咽喉」、「心臓」、「肺」、「腹部」等の各欄、「検査所見」の「検血」、「検尿」、「呼吸器系」、「心電図所見」、「肝機能所見」等の各欄には何も記入されておらず、(「術前状態」の「血圧」欄には「102/」と、「脈拍数」欄には120とそれぞれ記入があり)記入がない部分の検査は行われなかった。
昭和61年4月12日13時ころ、Aは、前投薬として硫酸アトロピンを臀部に注射され、その後30分余り経ってから手術室に入れられた。Aは注射をされたときから泣き出し、手術室に入るのを泣いて嫌がったが、X1は手術室前で看護師にAを引き渡した。
Y2医師は、Aの手術開始予定時刻にY外科に到着することができなかった。Y1医師は、Y2医師の到着前に、Y2医師がまもなく到着するであろうことを見越して、Aの手術の準備を始めたが、手術室に入ったAが興奮状態にあったため、看護師らがAを両脇から押さえつけ、その状態でY1医師が13時30分ころ、Aに対してマスク麻酔の方法によるGOF麻酔(笑気ガス、酸素、フローセンを一緒に投与する麻酔、以下「麻酔」という)の導入を開始した。そのうち、麻酔が効き始めてAが静かになったので、看護師らはAの手足を抑制し、Aに心電図モニター、血圧計、聴診器を固定装着した。その後、まもなくしてY2医師が手術室に入ってきたため、Y1医師はY2医師に麻酔管理を引き継いだ。なお、心電図モニターの記録は、Aに心停止が発生するまでは取られていなかった。
本件手術には5名の看護師が立ち会った。このうち、M看護師は、Y1医師の執刀開始前からAの血圧及び脈拍の一方又は双方の測定をし、その結果を医師に報告のうえ、看護記録に記載した。H看護師が遅れて手術室に入室した後は、H看護師が血圧を、M看護師が脈拍を測定することとした。
14時ころ、Y1医師の執刀によりAの手術が開始された。
Y2医師は、心電図モニターで脈拍数を確認し、聴診器(左前胸部に絆創膏で固定)で心音を聞き、心拍数を測り、更にAの頸動脈をマスクを保持している手の小指で触れて脈拍を測るなどして、麻酔管理を行った。マスクはマスクバンドでAに固定されていた。Y1医師の執刀開始後、Y1医師のメス操作時にAが少し動いたので、Y2医師は麻酔が未だ浅いのではないかと考えてフローセン濃度を2パーセントから2.5パーセントに上げ、その後血圧が少し下がり気味になったので、同濃度を2.5パーセントから2パーセントに下げた。
Y2医師は上記方法による測定結果をその都度麻酔記録に記載した(但し、心停止後の分は蘇生術が終わった後に記載した)が、脈拍については看護師の測定結果の報告も聞いて、Y2医師自身が間違いないと考えた測定結果を記載し、血圧については、看護師の測定結果を記載した。
Y1医師は、Aの下腹部を横切開し、まず右側から手術を行ったが、ヘルニア囊の壁は肥厚著しく、周囲と強固に癒着していたので、これを剥離し、ヘルニア囊の内腔に迷入していた直径約4センチメートルの小腸を還納し、できるだけ高位にヘルニア囊を結紮切断し、ファガーソン法で鼠径管前壁を強化し、次いで左側の手術に移行しようとした。
Y1医師が左側の手術に移行してまもなくの14時48分ころ、Y2医師はAに無呼吸、心停止が生じたことに気付き、Y1医師にその旨を告げて手術を中止するよう求め、Y1医師は直ちに手術を中止した。
Y1医師らはAの切開部をそのままにした状態で、直ちに気管内挿管して酸素(量を倍加して4リットル)を流入させ、また、心マッサージ、強心剤の投与、その他蘇生術を行った。B外科には除細動器は備え付けられていなかったため、これによる救命措置は行われなかった。Aには心停止後の当初には心室細動が見られたが、結局Aは蘇生せず死亡した。
Aの遺族(両親)が、Y1医師及びY2医師に対して、不法行為もしくは診療契約上の債務不履行に基づく損害賠償を請求した。
一審は遺族の請求を一部認容したため、Y1医師及びY2医師が控訴した。
(損害賠償請求)
原告側の請求額:患者両親の合計 6038万円
(内訳:患者の損害を相続した分(逸失利益3890万円)+父固有の損害(慰謝料750万円+葬儀費用等100万円+弁護士費用279万円)+母固有の損害(慰謝料750万円+弁護士費用269万円))
(判決による認容額)
一審裁判所(神戸地裁)の認容額:5907万円
(内訳:患者の損害を相続した分(逸失利益3767万円)+父固有の損害(慰謝料750万円+葬儀費用等100万円+弁護士費用270万円)+母固有の損害(慰謝料750万円+弁護士費用270万円)
控訴審裁判所(大阪高裁)の認容額:5907万円
(内訳:一審裁判所と同様)
(裁判所の判断)
1.患者の手術について麻酔担当医に過失はあったか
この点について、裁判所は、まず、Aに何らかの心疾患が存在した徴候があった事実を認めることはできず、むしろ、Aには手術中の心停止ないし蘇生不能に結びつくような心疾患はなかったものと認めるのが相当であると判示しました。
また、裁判所は、Aの手術時において、Aの喉頭部に機械的刺激が加えられた形跡はないから、かかる刺激により誘発される喉頭痙攣や気管支痙攣がAに生じた可能性はないし、迷走神経反射による心肺停止の場合は、Aに施された程度の蘇生術で通常心拍の再開が生じるとされているのにAにはそれが起こらなかったもので、かつ、Aに心疾患はなかった認められることや、Aの手術の施行経過等に照らすと、Aの心停止の原因がAの手術(麻酔を除く)自体あるいはAの身体的疾患にあった可能性は否定されると判断しました。
以上から、裁判所は、Aの心停止の原因は、麻酔薬の過剰投与による低酸素症ないし換気不全である蓋然性が高いと認定しました。
その上で、裁判所は、Y2医師のような麻酔施行による手術の経験を多数回有する医師であれば、少なくとも、14時41分の脈拍80の時点において、小児であるAの右脈拍数の減少からその異常を疑い、そのまま放置すれば心停止に至ることもあり得ることを予見することは可能であったと判示しました。また、血圧については、M看護師が退室した後に有意な変動があった可能性はあるが、仮にこれがなかったとしても、小児は、血管の弾力性に富むため、出血による循環血液量の低下に対してよく反応し、なかなか血圧に変化を来さず、限界まできて急激に著明な血圧低下が起こるため注意を要すること、低酸素状態であってもそれがストレートに血圧の数値に反映されず、心停止直前になって急激に血圧低下を来す場合があるため注意を要すること等からすれば、14時41分の脈拍数減少をそのまま放置すれば心停止に至ることもありうることを予見すべき注意義務はあったとすべきと判示しました。
裁判所は、以上のことからすれば、Y2医師は、遅くとも14時41分の点でAの脈拍数から異常の発生を疑い、直ちにAの手術を中止して異常の原因を究明し、その除去のために麻酔の中止、換気の確保等の措置をとるべき注意義務に違反したということができるとし、かかる注意義務違反がなければAの死亡結果を回避できた蓋然性が高いため、Y2医師には民法709条に基づく不法行為責任があり、Y1医師には、履行補助者(であるY2医師)の過失に基づく診療契約上の債務不履行責任があると判断しました。
2.患者及び患者両親の損害
この点について、控訴審裁判所は、第一審裁判所(神戸地方裁判所)の判決の通りであると判示しました。
第一審裁判所は、まず、患者Aの損害について、Aが死亡(手術)当時1歳11ヶ月であったこと等から、Aの逸失利益は3767万円であると判示しました。
その上で、第一審裁判所は、Aの母X1と父X2は、Aの死亡により、AのY1医師らに対する上記損害賠償債権額の各2分の1(1883万5000円)の債権を相続取得したと判示しました。
第一審裁判所は、次に、X1らの固有の損害は、A死亡によりX1らが受けた精神的苦痛に対する慰謝料各750万円、X2の支出した葬儀費用等100万円、弁護士費用各270万円であると判示しました。
以上の各損害及び弁護士費用について、控訴審裁判所は、上記「裁判所の認容額」記載の損害賠償をY1医師・Y2医師に命じました。
その後、判決は確定しました。