昭和60年6月10日大阪地方裁判所 損害賠償請求事件(判例タイムズ594号92頁)
(争点)
- 診療契約における債務不履行責任の主張立証責任
- 診療契約上の注意義務違反(過失)の判断基準
- 昭和46年6月28日当時の頸動脈海綿静脈洞瘻という疾患についての日本の医療水準
- 上記3の医療水準に基づく、本件医師らの注意義務違反(過失)の有無
- 医師の説明義務違反の有無
(事案)
患者X(当時34歳、女性、本件原告)が昭和45年4月末ころ右眼球の異常感を覚え、同年6月中旬ころS病院眼科で診断を受け、同年9月にS病院眼科医師はXに対し右側頸動脈撮影(選択的内頸動脈撮影であるかどうかは不明)を実施し、右内頸動脈海綿静脈洞瘻であるとの診断を下した。
昭和46年5月22日に頭痛、右眼球痛が出現したため、XはS病院眼科医師の紹介で、財団法人Yが経営し、国立大学医学部附属病院と提携しているY病院(本件被告病院)に入院し、Y病院の脳神経外科所属のA医師を主治医として診断を受けた。
A医師は昭和46年6月28日、右内頸動脈の結紮(血管の血流を遮断する目的で、糸などを用いて血管を閉ざすこと)術を実施した(以下本件結紮術)。
ところが、本件結紮術実施後、翌日にはXの疾患は増悪し、さらに頭蓋内圧亢進症状も出現した。同年7月1日、Xに突然左片麻痺が出現したため、A医師はY病院神経外科部長B医師と協議のうえ頭蓋内圧を減少させるために脳浮腫を減少させる薬剤を注射するなどしたが、Xの症状は好転しなかった。
そこでB医師及びA医師は7月1日、結紮を解除する手術を実施したが、効果はなかった。
その後もXの左片麻痺等の症状は継続し、7月10日には、右眼球の局所所見が増悪した。そこでA医師は、中大脳動脈への血行の再開を目的とする浅側頭動脈と中大脳動脈の血管吻合術を行えば症状が好転する可能性があるのではないかと考え、原告をT病院へ転送した。T病院で血管吻合術が実施されたが効果はまったくなかった。
Xの右眼の視力は低下し、左半身麻痺の状態が続いている。
(損害賠償請求額)
患者Xの請求額 3355万5717円(内訳不明)
(判決による請求認容額)
0円
(裁判所の判断)
診療契約における債務不履行責任の主張立証責任
診療契約は医師の側において、患者に対し、治療という満足のできる結果を常に約束するものではなく、当該疾患に対して善良な管理者としての注意義務に従い、当時の臨床医療水準上適当な医学的処置を加えることを内容とするものであるから、医学的処置に瑕疵がない限り、満足のできる結果が得られず、また予期しない結果をみたとしても、それだけでは直ちに診療契約上の注意義務違反(過失)に問われるものではないと判示。
そして、債務不履行責任を主張する原告において、被告(Y病院)ないしその履行補助者の注意義務違反(不完全履行)に該当する具体的事実を主張立証しなければならないとしました。
診療契約上の注意義務違反(過失)の判断基準
医師は、その当時における医療水準に従って医療行為を実施したかどうかによって、その過失の有無が決定されると判示。そして注意義務違反(過失)の判断基準としての医療水準は、当該医療行為のなされた時期、当該医師の専門分野、当該医師のおかれた社会的、地理的その他の具体的環境(たとえば、当該医師が医療行為に携わっている場所が、一般開業医院か、総合病院や大学医学部附属病院かといった点)等諸般の事情を考慮して具体的に判断されなければならないとしました。
その上で、本件においては、医師の注意義務違反(過失)の有無は大学医学部附属病院などの総合的かつ専門的な医療機関において、実践されている本件結紮術当時の医療水準によって決すべきであると判示しました。
昭和46年6月28日当時の頸動脈海綿静脈洞瘻という疾患についての日本の医療水準
医学界においてすら、頸動脈海綿静脈洞瘻という疾患を、現在外頸動脈海綿静脈洞瘻とされるものを区別せずに、全て内頸動脈が海綿静脈洞への導入血管となっているもの、すなわち内頸動脈海綿静脈洞瘻であると理解し、従って総頸動脈撮影の結果海綿静脈洞が描出されれば、直ちに内頸動脈海綿静脈洞瘻であると診断を下してよく、それ以上に、総頸動脈撮影の結果を詳しく検討したり、選択的内外頸動脈撮影を実施したりして海綿静脈洞と交通している血管を確認する必要はないと理解し、それが本件結紮術当時の被告病院も含む大学医学部附属病院等の総合的かつ専門的病院の医療水準ともなっていたと認定しました。
上記3の医療水準に基づく、本件医師らの注意義務違反(過失)の有無
上記3の医療水準に照らせば、A医師が、国立大学医学部の実質的附属病院という性格を有し、かつ当該地方においては脳神経外科として最高の権威を有しているY病院に所属する医師であったことを考慮しても、同医師が、総頸動脈撮影実施の結果海綿静脈洞が描出されたことから、S病院で下された右内頸動脈海綿静脈洞瘻であるという診断が正しいものと判断し、それ以上に選択的内外頸動脈撮影を実施しなかったり、それ以上に左右の総頸動脈撮影の結果について詳細に検討して海綿静脈洞と交通している血管を確認することを行わなかったことが注意義務違反には該当しないと認定しました。
医師の説明義務違反の有無
内頸動脈結紮術による片麻痺発生率が約12パ�セント程度であるということが、本件結紮術当時大学医学部附属病院などの総合的かつ専門的病院におけるその医療水準上確立した認識、理解であったとまではいえず、A医師が文献を根拠に片麻痺発生率が約2パ�セントであると考え、またA医師の直接認識した限りでは術後合併症の発生している場合のなかったことから、本件結紮術による片麻痺発生の危険性をそれほど重視していなかったことをもって、医療水準から逸脱したものとして評価し、非難することまではできないと判示しました。
その上で、A医師が上記理由から本件結紮術実施による片麻痺発生の危険性をそれほど重視せず、患者Xに対し、一方では本件結紮術実施の結果片麻痺発生の危険性があることは説明しながら、他方では本件結紮術を一応心配はないという程度の説明を行っていることも、妥当を欠くところがあるというにとどまり、未だ合理的裁量の範囲を逸脱し、説明義務に違反したものと断定するには十分でないと判示して、説明義務違反を否定しました。