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No.259「全身麻酔手術において、麻酔担当医が27分間不在の間、患者に酸素を供給していた蛇管が脱落し、酸素の供給が遮断され、患者に完治不能の低酸素脳症に基づく高次脳機能障害及び四肢不全麻痺の傷害。業務上過失傷害罪で起訴された麻酔担当医に無罪を言い渡した地裁判決」

横浜地方裁判所 平成25年9月17日判決(裁判所ウェブサイト)

(争点)

麻酔科医師であるY医師に、麻酔導入後、手術室に常時在室して直接患者の全身状態を絶え間なく看視すべき業務上の注意義務があり、それに違反したといえるか否か。

 

(事案)

Y医師(被告人)は、医師免許を受け、A病院において麻酔科医師として医療業務に従事していた。

Y医師は、平成20年4月16日患者B(当時44歳)に対する左乳房部分切除及びセンチネルリンパ節生検の手術(本件手術)を行うに当たり、麻酔担当として、Bに全身麻酔を施すため、同日午前8時55分頃、麻酔導入を開始し、Bを自発呼吸のできない意識消失・鎮痛・筋弛緩状態にした。

本件手術は、A病院甲手術室において、執刀医がC医師、執刀助手がD医師、麻酔担当医がY医師、器械出し看護師がE、外回り看護師がFという5名がチームとなって行われた。

Y医師は、本件当日、A病院において、自己の業務を行いつつ、同時に行われていた他の手術室への応援を含めた手術室全体の調整や後期研修医の指導・補助をしなければならない、いわゆるインチャージの担当に当たっていたため、Bの状態が安定しているのを見計らって、同日午前9時7分頃、1人で硬膜外麻酔等を行う後期研修医Gの指導・補助をしようと、甲手術室を出て、15秒ほどで移動できる乙手術室に向かった。その際、Y医師は連絡用のPHSを携帯しており、F看護師にインチャージのため退室するが、何かあったら知らせてほしいと告げた。

C医師は、Y医師が不在であるにもかかわらず、午前9時15分頃、F看護師にBのベッドの高さ及び角度の調整をさせ、タイムアウト(手術開始時に当該手術を担当するスタッフ全員が集まり、術式等の確認をするほか、麻酔科医師及び看護師の準備ができているかを確認する手続)の声掛けをした上、本件手術を開始した。なお、この際、Y医師には手術開始の連絡はされなかった。

午前9時16分頃、Bに酸素を供給していた蛇管が、接続されていた麻酔器の取付口から脱落し、Bへの酸素の供給が遮断された。蛇管の脱落の原因は、確定はできないが、蛇管は外れやすく、ベッドの調整のときに外れることがよくあること、F看護師による前記ベッドの調整の直後に脱落していることなどからすると、これが原因である可能性が高い。

蛇管の脱落あるいはそれに起因するBの状態の異変には、甲手術室の誰もが気付かず、本件手術が続行されていたところ、F看護師が、午前9時31分頃、生体監視モニター画面に、「SpO2」の表示がないことに気づき、その旨C医師に告げるとともに、Bの指先に付けた測定クリップを付け直すなどしたが、依然として数値の表示が出ないため、午前9時33分頃、PHSでY医師に「SpO2」の表示が出ないことを知らせた。

Y医師は、乙手術室での指導・補助に熱心な余り、時間が経つのを忘れ、甲手術室に戻るのが遅れていたところ、F看護師の連絡を受けて、直ちに甲手術室に引き返し、本件手術が既に始まっていたことを知るとともに、蛇管が麻酔器から脱落していることにすぐ気づき、用手換気を続けるなど、応急措置を講じたが、午前9時37分頃、Bの心肺は一旦停止した。その後、C医師や応援の医師らが薬剤の投与や心臓マッサージ等の蘇生措置を施したことにより、心肺は再開したが、Bは完治不能の低酸素脳症に基づく高次脳機能障害及び四肢不全麻痺に陥った。

検察官は、Y医師を業務上過失傷害罪で起訴した。

 

(量刑)

検察官の求刑 :罰金50万円

弁護人の主張 :無罪

裁判所の判決 :無罪

 

(裁判所の判断)

1.裁判所は、過失犯の中心的な成立要件である結果回避義務(注意義務)に着目し、問題とされるY医師の行動が、Y医師の置かれた具体的状況、さらには当時の我が国の医療水準等を踏まえた上で、刑事罰を科さなくてはならないほどに認容されないものかどうかという観点から、過失犯の成否を検討していくと判示しました。

2.まず、本件事故については、Y医師が甲手術室を不在にしていた間に、本件手術が開始され、その際、蛇管が脱落し、その結果、Bへの酸素の供給が遮断され、Bの状態に異常が発生し、これを察知した麻酔器モニター及び生体監視モニターがアラームを発報したにもかかわらず、その異変に甲手術室にいた誰もが約18分間も気づかなかった点を指摘し、Y医師の不在という問題性を考えるにあたっての影響につき、以下のような検討をしました。

(1)麻酔担当医が不在のまま、本件手術が開始されたことについては、タイムアウトの趣旨に反するもので、それ自体、問題ではあるが、A病院では麻酔担当医が不在のまま手術が開始されることもなくはないこと、Y医師が甲手術室を離れたのは、本件手術が間もなく始まることが十分見込まれた時点であることからすると、Y医師に対してこのようなこともあり得るものとして行動するよう要求しても、あながち不当ではないと判示しました。

(2)蛇管が脱落したことについては、その原因が何であれ、Y医師にとって特に意外なことではなく、Y医師に対して、このようなことがあり得るものとして行動するように要求しても、何ら不当ではないと判示しました。

(3) Bの状態に異常が発生し、麻酔器モニター及び生体監視モニターのアラームが発報したにもかかわらず、その異変に甲手術室にいた誰もが約18分間気づかなかったことについては、それが器械の故障等であれば別であるが、本件のように、甲手術室にいた者が、アラームが発報しているにもかかわらず、それを無視した、あるいはその発報が聞こえないように音量を調節したということであるとすれば、明らかに異常なことであり、問題は大きいと指摘しました。Y医師は、退室する際に、F看護師に何かあったら連絡をしてほしいと告げているが、それは、自分の不在中に、本件手術の開始をするか否かを問わず、麻酔器モニターや生体監視モニターのアラームが発報するようなことでもあれば、すぐに知らせてほしいという趣旨を含んでいることは明白であり、Y医師とすれば、異変の知らせがあれば、すぐに甲手術室に戻り、蛇管の脱落にすぐ気づいて、本件事故を招くようなことはしなかったであろうことも明白であると判示しました。

裁判所は、そうすると、Y医師に対して、このような事態が起こることもあり得るものとして行動するように要求することは、いかにも酷であり、不当であると判示しました。したがって、この点はY医師の不在という問題性を考えるに当たって、消極方向に働く事情として十分に考慮してよいものといえると判断しました。

3.

(1)裁判所は、Y医師が甲手術室を不在にした用向き(インチャージの担当として、乙手術室で硬膜外麻酔等を行う後期研修医の指導・補助に赴いた)には何ら問題がなかったと判断しました。

(2)裁判所は、Y医師が甲手術室を離れたのは、麻酔導入を終えて、Bの状態が安定していることを確認してからであり、PHSを携帯し、インチャージで出かけることもF看護師に何かあったら連絡してほしいということも言い置いているとして、不在にしたタイミング等についても格別問題はなかったと判断しました。

4.裁判所は、検察官が、ア:麻酔担当医であるY医師は、Bに全身麻酔を施したことにより、Bを自発呼吸のできない意識消失・鎮痛・筋弛緩状態にしたのであるから、Bの生命維持のため、呼吸管理するなどして、Bの身体の状態を適切に維持・管理することが不可欠となった、イ:したがって、Y医師には、Bの身体の状態を目視するほか、Bに装着されたセンサー等により測定・表示された心拍数等を注視するなどの方法で、Bの全身状態を絶え間なく看視すべき業務上の注意義務があると主張していることにつき、判決中で次のように述べました。

アの点は一般論としては全くそのとおりである。しかし、そうであるからといって、イのように、麻酔担当医が、常時、手術室にいて、患者の全身状態を絶え間なく看視すべきであるとして、具体的な注意義務を導くのは、あまりにも論理が飛躍しているというほかない。

5.裁判所は、以上を踏まえて、甲手術室不在というY医師の行動は、その不在時間の長さ(甲手術室に戻るまでに約27分間、蛇管が外れたときまででも、約9分間)からして、インチャージの担当として後期研修医の指導・補助をしていたという事情があったとはいえ、いささか長過ぎたのではないかとの問題がなくはないが、Y医師の置かれた具体的状況、更には当時の我が国の医療水準等を踏まえてみたとき、刑事罰を科さなければならないほどに許容されない問題性があったとは、到底いいがたいと判断しました。 したがって、本件事故について、Y医師には、検察官が主張するような、常時在室してBの全身状態を絶え間なく看視すべき業務上の注意義務を認めることはできないとして、Y医師の過失を否定し、無罪の言い渡しをしました。

その後、地検が控訴を断念して判決が確定したとの報道に接しています。

カテゴリ: 2014年3月10日
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