平成13年9月20日横浜地方裁判所判決(業務上過失傷害被告事件)
(争点)
- 看護師D、Eの注意義務違反の有無
- 執刀医A、Bの注意義務違反の有無
- 麻酔科研修医C、麻酔科医Fの注意義務違反の有無
- 量刑
(事案)
(1)手術室交換ホールでの患者の取り違え
市立大学医学部付属病院(本件病院)において、平成11年1月11日午前9時から、男性入院患者甲(当時74歳)の心臓手術を、男性入院患者乙(当時84歳)の肺手術をそれぞれ予定していた。
そして、病棟看護師の被告人D看護師が患者両名をそれぞれストレッチャーに乗せて一緒に病棟から手術室交換ホールに運び、同ホールで患者両名を順次ハッチウェイを通して手術部看護師の被告人E看護師に引き渡した。その際D看護師はE看護師に対し、「甲さんと乙さんです」と患者両名の姓を同時に告げ、まず甲をE看護師に引き渡そうとした。
E看護師は、甲の引渡しを受けるにあたり、目前の患者が甲なのか乙なのか 区別できなかったが、後輩看護師が近くに来ていた手前、術前訪問をしていたのに患者の特定、確認ができないことを恥ずかしく思うなどしたため、先に引き渡される患者の名前を確認するつもりで「甲さん・・・。」と質問が確認か判然としないような調子でD看護師に声をかけた。「甲さんと・・・。」と聞き取ったD看護師は、E看護師が先に引き渡される患者が甲だと分かっていて、次に引き渡す患者の名前を聞いたものと思い、「乙さんです」と答えた。
このためE看護師は不安を抱いたまま、誰か気づいてくれるだろうという安易な考えもあって、先に引き渡される患者が乙であるものと思い、患者甲を受け取ると、患者乙の手術室介助担当看護師に患者甲を患者乙として引き渡した。さらに、D看護師が患者甲のカルテ等の引渡しを済ませる前に、E看護師は「じゃあ続けて」と次の患者を引き渡すよう促した。そこでD看護師は患者甲のカルテ等の引渡しの前に患者乙をE看護師に引渡したが、その際患者の名前を告げず、E看護師も確認しないまま、患者乙を患者甲として患者甲の手術担当看護師に引き渡した。D看護師は患者両名を引き渡した後、ハッチウェイ横のカルテ受け渡し台で患者甲の姓を呼んで甲の手術室介助担当の看護師に甲のカルテ等を引き渡し、また患者乙の姓を呼んで乙の手術室介助担当の看護師に乙のカルテ等を引き渡した。甲乙担当の各手術室介助担当看護師らは、術前訪問をしておらず、各担当患者とは面識がなかった。また各看護師らが各患者に名前を間違えて声をかけたが、甲、乙はいずれも名前が間違えられていることに気づかずに返事をしたり、うなずいたりした。そして、それぞれの手術室介助担当看護師は、患者両名が取り違えられたことに気づかず、そのまま患者両名を手術室に搬送した。
(2)患者甲と間違えられた患者乙に対する心臓手術
患者甲と間違えられた患者乙に対して心臓手術が行われることとなり、被告人F医師(麻酔科医)がより経験のある麻酔科医J医師の指導、補佐を受けて麻酔導入を行った。F医師は患者乙に対し何度か「甲さん」と声をかけ、患者乙は頷くなどした。
F医師は、患者甲であれば入れ歯があるはずなのに、入れ歯でなかったこと、心臓手術患者なのに、心雑音がなく、胸毛が剃毛されていないこと、髪の毛の長さや色が違うこと、エコー検査が術前の所見と違うことなどが重なったため、当該患者と患者甲との同一性に疑問を持ち、他の複数の医師に患者の確認を求めたがはっきりした返事はなく、かえって疑問を否定する発言があり、病棟にも確認したが、患者甲は手術室に降りているとの回答があった。そのためF医師も自分の勘違いと思って、それ以上患者の同一性確認の措置を取らなかった。
午前9時45分頃から、K医師(第1助手)及びI医師(第2助手)によって執刀が開始され胸骨正中切開等が行われた。その後入室した被告人A医師(執刀医・第一外科部長・同科内の心臓血管外科担当医師グループの指導者)は、術中のエコー検査の結果が術前検査の結果と異なるものの、麻酔の影響であろうと考え、手術の続行を決め、患者乙に対して心臓手術を行った。このとき、A医師は、患者乙の心臓を見て、術前所見でかなり肥大化した心臓を予想していたのに、心臓が小さいと思った。手術は午後3時45分頃終了したが、この間、患者甲の予め貯めておいた自己血液が患者乙に輸血された。
患者乙は麻酔状態に陥ったことに加え、上記手術により全治約5週間を要する胸骨正中切開、心臓僧帽弁輪形成等の傷害を負った。
(3)患者乙と間違えられた患者甲に対する肺手術
患者乙と間違えられた患者甲に対して肺手術が行われることとなり、被告人C医師(麻酔科研修医)がより経験のある麻酔科医O医師の指導、補佐を受けて麻酔導入を行った。C医師は患者乙の人相や容貌を覚えていなかったため、患者甲を患者乙と誤信したまま麻酔の準備に入り、患者甲の背中に心臓疾患患者用の治療剤(通称フランドルテープ)が貼付されていた上、既往歴として把握していた脊柱管狭窄症の手術痕が見あたらなかったが、フランドルテープであることに気づかずこれを剥がし、手術痕が見当たらないことの理由を確かめず硬膜外麻酔を実施した。
そして、被告人B医師(執刀医・第一外科の病棟主治医グループの長・患者乙の主治医でもある)は午前9時35分ころ手術室に入った。C医師はB医師に、患者の背中にテープが貼られていたことや、手術痕が見当たらないことなどを伝えなかった。そして、B医師は午前10時ころから開胸生検の手術を開始した。執刀後、手術前には所見として把握していなかった肺気腫が存在し、肺癌と疑われた腫瘤が見あたらないことなどを認識したが患者の同一性につき再確認の手段を講じることなく、手術を継続した。手術室には、B医師よりも指導的立場にあり、当該手術では第一助手であったN講師や、肺を専門とする外科医のM医師も在室していた。患者甲は麻酔状態に陥ったことに加え、全治約2週間を要する右側胸部切創、右肺嚢胞一部切除縫縮、右第五肋骨欠損等の傷害を負った。
(裁判所の判断)
看護師D、Eの注意義務違反の有無
(1)D看護師について
看護師一人で二名の患者を同時搬送して引き渡す場合、各患者の氏名等を一人ずつ確実に伝え、当該患者のカルテ等を当該患者のものであることが分かるようにして同時にこれを引き渡すなどして患者取り違えによる事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠ったと認定。
(2)E看護師について
D看護師から同一機会に患者甲乙両名の引渡しを受けるに当たり、患者の同一性を確認できなかったのであるから、その氏名等を患者ごとに確認するとともに、当該患者のカルテ等を同時に受け取るようにするなど、患者取り違えによる事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠ったと認定。
執刀医A、Bの注意義務違反の有無
(1)A医師について
A医師は患者甲に対する手術全般に責任を有する執刀医であり、同一時刻に複数の患者に対する手術が予定されているのを認識しており、執刀前に手術室内で実施した経食道心エコー検査において、術前検査と著しく異なる検査結果が出ていることを認識したのであるから、患者の同一性についても再確認し、患者両名に対する取り違え事故の発生を未然に防止ないし中止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠ったと認定。
(2)B医師について
B医師は患者乙に対する手術全般に責任を有する執刀医であり、同一時刻に複数の患者に対する手術が予定されているのを認識しており、患者乙の容貌、身体、剃毛範囲等の外見的特徴、手術前の病状等を把握し、手術室内の患者が患者乙本人であることを確認して執刀するのはもとより、執刀後においても手術前には所見として把握していなかった肺気腫が存在し、肺癌と疑われた腫瘤が見当たらないなど術前検査の結果と異なる所見を認識したのであるから、患者の同一性についても再確認し、患者両名に対する事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠ったと認定。
麻酔科医C、Fの注意義務違反の有無
(1)C医師について
C医師は手術中における患者の全身状態の管理を行う麻酔科医師として患者乙の術前回診を行い、その容貌、身体等の外見的特徴、手術前の病状等を把握していた上、同日時刻に複数の患者に対する手術が予定されているのを認識していたのであるから、患者乙に対する手術に関与するにあたり、麻酔導入前に当該患者の外見的特徴等や問診により患者が乙本人であることを確認するのはもとより、当該患者の背中にフランドルテープが貼付されていた上、既往歴の手術痕が見当たらなかったのであるから患者の同一性に疑念を抱き、慎重に再検討を加えて患者両名に対する事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠ったと判示した。
(2)F医師について
裁判所は、
1.そもそも人物を容貌等の外見的特徴に基づき記憶で確認することは困難であり、F医師は患者乙に甲の姓を口にして声をかけ、乙から問いかけに相応した返事を得ていることなどから、F医師には麻酔導入前の確認について注意義務違反は無いと認定した。そして、
2.麻酔導入後F医師の講じた措置が患者取り違えの結果発生を防止する行動として不十分であったとしながらも、F医師が手術室看護師に指示をして病棟に電話させたこと、患者同一性の疑念について指導者であるJ医師に訴え、第一外科の主治医グループにも確認を求めたこと、一方で、主治医グループはそのような重大な問題提起をされながら、本件手術の第二助手を勤め、当日までに患者甲を4回診察し当日朝にも回診したI医師は髪は散髪したんじゃないかとか胸の形が同じだなどと公言し、本件手術の第一助手で既に11回患者甲を診察していたK医師も疑義を抱かず、I発言を容認していること、術前検査と術中検査の著しい相違についてはJ医師が麻酔の影響ではないかと述べ、手術室内にいた医師の中で最も高い地位にいたL講師ですら納得してしまったこと
をそれぞれ指摘した。
その上で、手術室に在室していた医師の中で最も若い医師の一人であるF医師が患者の同一性について問題提起をし、その確認を求めたことは医療従事者として正当に評価されるべきであり、この疑義を重大に受け止めず、同一性確認についてより豊富な情報量を有する立場にあり、あるいはF医師を指導、補佐すべき立場にありながら、F医師の疑問を排斥した他の在室者の罪が問われず、患者の同一性確認のため正当な問題提起をし、相応な努力をしたF医師にさらに尽くすべき義務があるというのは過酷に過ぎ、F医師としてはなすべき注意義務を尽くしたというべきであるとして、過失を否定した。
*なお、新聞報道等によると、控訴審(東京高等裁判所平成15年3月25日判決)ではF医師についても過失があるとして有罪の判決が言い渡された。
量刑
A医師:罰金50万円
B医師:罰金30万円
C医師:罰金40万円
D看護師:罰金30万円
E看護師:禁錮1年、執行猶予3年
F医師:無罪
*なお、前記と同様に、控訴審ではA医師、B医師、C医師、D看護師、E看護師にそれぞれ罰金50万円、F医師に罰金25万円の刑が言い渡された。