東京地方裁判所平成12年12月27日判決 判例時報1771号168頁
(争点)
薬剤の取り違えに関する看護師の注意義務違反の有無および量刑
(事案)
患者A(本件事故当時58歳、女性)は、慢性関節リウマチ治療のため、B都立病院に入院して、左中指滑膜切除手術を受けた。看護師Y1およびY2は、B都立病院整形外科に勤務していた。平成11年2月11日、医師の指示により、Aに対し、点滴器具を使用して抗生剤を静脈注射した後、Aに刺した留置針の周辺で血液が凝固するのを防止するため、引き続き血液凝固防止剤であるヘパリンナトリウム生理食塩水を点滴器具を使用してAに注入することになった。
8時15分ころ、看護師Y1は保冷庫から、注射筒部分に黒色マジックで「ヘパ生」と記載されたヘパリンナトリウム生理食塩水10ミリリットル入りの無色透明の注射器1本を取り出して処置台に置き、続いて他の入院患者Eに対して使用する消毒液ヒビテングルコネート液を準備するため、無色透明の注射器を使用して容器から消毒液ヒビテングルコネート液を10ミリリットル吸い取り、この注射器を先ほどのヘパリンナトリウム生理食塩水入りの注射器と並べて処置台において置いた。
看護師Y1は、その後、先ほどのヘパリンナトリウム生理食塩水入りの注射器の注射筒部分に黒マジックで書かれた「ヘパ生」という記載を確認することなく、これを消毒液ヒビテングルコネート液入りの注射器であると誤信して、黒マジックで「6、E様洗浄用ヒビグル」と手書きしたメモ紙をセロテープで貼り付け、他方、消毒液ヒビテングルコネート液入りの注射器をヘパリンナトリウム食塩水入りの注射器であると誤信して、これを、抗生剤とともにAの病室に持参した。
看護師Y1は、午前8時30分ころ、Aに対して点滴器具を使用して抗生剤の静脈注射を開始するとともに、消毒液ヒビテングルコネート液入りの注射器をAの床頭台の上に置き、それから他の患者の世話をするためその場を離れた。
その後、同日午前9時ころ、Aから抗生剤の点滴が終了した旨のナースコールに応じて赴いたY2看護師が抗生剤の点滴終了後、Aの床頭台に置かれていた消毒液ヒビテングルコネート液入りの注射器をヘパリンナトリウム生理食塩水の注射器であると思い込み、これをAに点滴して投与した。
その後、Aの容態が急変し、その連絡を受けた医師の指示により、同日午前9時15分ころ、血管確保のための維持液の静脈への点滴が開始されたが、維持液に先立ち、点滴器具内に残留していた消毒液ヒビテングルコネート液を全量Aの体内に注入させることになり、Aは、消毒液ヒビテングルコネート液の誤投与に基づく急性肺塞栓症による右室不全により死亡した。
(裁判所の判決)
Y1看護師:禁錮1年執行猶予3年
Y2看護師:禁錮8月執行猶予3年
(裁判所の判断)
薬剤の取り違えに関する看護師の注意義務違反の有無および量刑
(1)Y1看護師の注意義務違反
裁判所は、Y1看護師につき、患者に投与する薬剤を準備するにつき、薬剤の種類を十分確認して準備すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠ったと認定しました。さらに、量刑の事情として、血液凝固防止剤入りの注射器には黒マジックで「ヘパ生」と書かれているので特定の必要はなく、消毒液入りの注射器には何も書かれていないので特定する必要があったところ、不注意にも特定する必要のない血液凝固防止剤入りの注射器の方に消毒液である旨のメモ紙をセロテープで貼り付け、特定する必要のある消毒液入りの注射器の方を何の特定もしないままAの病室の床頭台に置いて準備したのであり、薬液を取り違えてはならないという、基本的な注意義務を怠ったものであり、通常は考えられない初歩的な過誤を犯したものであると指摘しました。
(2)Y2看護師の注意義務違反
裁判所は、Y2看護師についても、患者に投与する薬剤を準備するにつき、薬剤の種類を十分確認して準備すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠ったと認定しました。さらに量刑の事情として、床頭台に置かれていた薬剤入りの注射器を確認すれば、本来、あるべき「ヘパ生」の記載がないので、血液凝固防止剤ではないことに気づくのに、自分で準備した薬剤でもないのに、その何であるかを確認しないままAに点滴するという、基本的な注意義務を怠ったと指摘しました。
(3)生じた結果など
裁判所は、生じた結果がAの死亡という重大、深刻なものであること、Aは、まだ50歳代の女性であり、慢性関節リウマチ治療のため入院して左手中指の手術を受けたのであるが、それは生命に危険を及ぼすような病気や手術ではなく、術後の経過は良好で入院期間10日位で退院できる予定であったのに、信頼していた病院の看護師による誤薬投与のため、突然苦しみに襲われ、苦しみながら命を落としたのであって、Aの無念さは察するにあまりあること、Aが元気に退院する日を待っていた遺族らの悲嘆も大きいことを指摘しました。
(4)Y1のために酌むべき諸事情
裁判所は、Y1看護師が本件後直ちに自らの薬剤取り違えの過誤に気づき、勇気を出して、応急処置中の医師にその過誤を告白し、その後婦長などにも自分の過誤を申告し、翌日には院長や副院長の出席していた会議の場でも薬剤の取り違えの経緯について説明し、Aが死亡したのは薬剤の取り違えが原因である旨述べていること、深く反省していること、「死んでお詫びをしよう」と思い詰めたこともあること、使命感を抱き看護師になり、これまで誠実に看護業務を遂行してきたのであり、周囲の信頼も厚く、前科前歴もないこと、本件で停職処分を受けていることなどを酌むべき諸事情として挙げました。
(5)Y2のために酌むべき諸事情
裁判所は、Y2看護師が、当初は本件に関与していることからの動揺と自分の過誤を否定したいという気持ちからAに投与した注射器に「ヘパ生」と書いてあった旨述べたり、その旨報告書に書いたりもしたが、その後、警察での取調べでは「ヘパ生」を確認したというのは勘違いであり、実際には良く確認していなかった旨正直に供述していること、深く反省していること、使命感を抱き看護師になり、これまで誠実に看護業務を遂行してきたのであり、周囲の信頼も厚く、前科前歴もないこと、本件で戒告処分を受けていることなどを酌むべき諸事情として挙げました。
その後判決は確定しました。