昭和62年6月10日東京地方裁判所判決 (業務上過失致死被告事件)
(争点)
- 産婦人科医が妊娠月数を誤診し、危険な中絶術を選択し、出血多量により患者を死亡させた、業務上過失致死事案における注意義務(過失)の内容
- 量刑(禁錮1年2月、執行猶予3年)とその理由
(事案)
産婦人科医院を開設している被告人A医師が、妊娠7ヶ月のB(当時16歳)に人工妊娠中絶手術を実施するにあたり、Bの妊娠月数を4ヶ月と誤診したため、子宮口から胎盤鉗子などを用いて胎児を除去する中絶術を採用した。そして、A医師は手術途中でBが妊娠中期であることに気づいたがそのまま上記中絶術を続行し、ひたすら胎児の除去に気を取られ、子宮壁損傷、胎盤剥離面の挫滅及び胎盤損傷によりBに出血多量等の異常が生じているのに気が付かなかった。このため、Bは上記各傷害による失血から死亡した。
(裁判所の判断)
注意義務(過失)の内容
(1)Bのように妊娠5ヶ月以上7ヶ月以下(妊娠中期)の場合には子宮口から胎児を胎盤鉗子等を用いて除去する中絶術は子宮壁等の損傷による多量出血の危険が大きいから採るべきではないと認定した上で、妊婦の妊娠月数によって適切な中絶手術方法が異なるから、医師には十分な内診をするなどして妊娠月数を正確に診断し、子宮壁等の損傷による多量出血の危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があると判示した。
(2)当初妊娠月数を4ヶ月と誤診したため、子宮口から胎児を胎盤鉗子等を用いて除去する中絶術を採り、途中で妊娠中期であることに気づいた場合に、なおその中絶術を続行するのであれば、出血多量等の異常が生じたときには直ちに手術を中止し、輸血等の適切な救急措置を講じてBの生命身体に対する危険を極力食い止める必要があり、そのためには出血量、脈拍、血圧等に十分注意するなどして、Bの全身の状態を監視すべき業務上の注意義務があると判示した。
(3)そして、本件では被告人A医師が(1)(2)の注意義務を怠った過失があると認定した。
量刑とその理由
量刑 禁錮1年2月、執行猶予3年
理由
(1)過失の態様
母体の生命及び身体に対する高度の危険が内在している人工妊娠中絶手術の方法選択及び実施にあたっては細心の注意を払うべきである。しかし、A医師は本件手術の約3ヵ月半前にBに対して実施した人工妊娠中絶手術が失敗していたのに成功したものと過信していたことなどから、妊娠月数を正確に診断するという最も基本的かつ重大な注意義務を怠ったと認定。
更に本件手術の途中で誤診に気づいたため、手術を中止するなど、Bの生命身体に対する危険を回避する措置を採るべき機会があったにもかかわらず、かえって、慌ててしまったため、判断を誤り手術を継続したばかりか、基本的かつ重大な注意義務である妊婦の出血量等を監視すべき義務をも怠ったと認定。
そして、過失の態様は悪質であると判示。
(2)結果の重大性
16歳という前途豊かな若き生命を奪い、その両親にはかりしれない精神的打撃を与えたとして刑事責任は重大であると判示。
(3)被告人に有利な情状
1.Bの遺族との間で、5760万円を支払い示談をした
2.医師としての信用を失墜し産婦人科の医院の経営継続が困難になるなど相当程度の社会的制裁を受けていること
3.自ら優生保護法指定医師の指定を辞退するなど反省の情を示していること
4.前科前歴が全くなく、25年間余りにわたり産婦人科医師として業務に従事してきたこと
5.一家の大黒柱として扶養すべき妻子がいること