長野地方裁判所上田支部 平成23年3月4日判決 判例タイムズ1360号179頁
(争点)
- 咬合調整に関する歯科医師Yの過失
- Xに対するYの発言が不法行為にあたるか
- 因果関係
- 損害
(事案)
X(昭和29年生まれ、女性)は、平成18年12月6日、歯がしみると訴え、歯科医師Yが開業するY歯科医院(以下Y医院)を受診した。Yは、口腔内全体の診察やパノラマレントゲン撮影を行うなどし、Xがしみると訴えていた歯が虫歯であること、他にも虫歯があること、歯のほぼ全体が歯周炎になっていることを診察した。さらに、Yは、Xの上右1番、上左1番及び上左2番の3本の差歯(以下本件差歯)の歯茎の後退を指摘し、美容的見地から差歯の交換を勧めたほか、別の差歯の心棒の交換の必要性などについても説明し、Xは本件差歯の交換に合意した。
Yは、Xに対し、本件差歯の交換に係る治療を行い、同年3月6日までに当該治療を終了した。
その後、Xは歯痛を訴えたため、Yは、Xの自然歯につき3月7日から3月22日の間に合計6回、本件差歯などの自然歯以外の歯につき、3月25日から5月30日までの間に合計12回、それぞれ咬合調整として研削がなされ、この間に本件差歯の取り外し及び仮歯の装着が行われたり、顎の動きを確認するためシロナソグラフによる検査(5月3日)が行われた。また本件歯痛の原因がXの「くいしばり」にあるのではないかとの可能性を検討するために、YがXに「マウスピース」の装着を勧めた(5月4日)りもした。
Yは、これらの治療中、非定型歯痛に関する知識はなく、本件歯痛の原因が判明しないことについて、3月22日ころから当惑するようになり、以後、種々の可能性を検討したり、検査などを行ったりしたものの、結局、本件歯痛の原因は分からなかった。
Xは、6月30日にY医院を受診し、これがY医院での最後の受診となった。
Xは、8月21日以降、東京のT大学付属病院を受診し、歯の検査等を受けたが、歯痛に付き、歯科的な痛みの原因は見つからなかった。そのため、同病院の医師は、Xの歯痛につき、非定形歯痛であると診断し、Xに対し、抗うつ薬による薬物治療を行った。
Xは、Yの過失により、歯の咬み合わせの変化によって歯痛が生じ、さらに、非定形歯痛が発症ないし悪化したとして、Yに対し、不法行為及び診療契約の債務不履行に基づいて損害賠償を請求し、さらに、治療中にYから侮辱的な発言を受けて精神的苦痛を受けたとして、Yに対し、不法行為に基づき慰謝料を求めて訴えを提起した。
(損害賠償請求額)
患者の請求額:計2040万5634円
(内訳:治療費等99万6390円+休業損害192万8586円+逸失利益638万0658円+慰謝料900万円+弁護士費用200万円。内訳合計額と請求額一致せず。原因不明。)
(判決による請求認容額)
裁判所の認容額:計80万円
(内訳:慰謝料70万円+弁護士費用10万円)
(裁判所の判断)
咬合調整に関する歯科医師Yの過失
裁判所は、まず、歯科医師としては基本的な文献である日本歯科医師会雑誌の記載内容によれば、本件歯痛に対する治療が行われた当時、歯科医師としての日本国内の医療水準として、歯痛を訴える患者がいた場合、歯科的な原因が判明しない時には、非定形歯痛や非歯原性歯痛等の可能性も考慮にいれて治療すべきであること、さらに、非定形歯痛が疑われる場合には、歯科治療は無効であり、かえって事態を悪化させることのほうが多いとされていることから、薬物療法が奏功するまでは、なるべく歯科治療を行うべきではないことについて知見があり、その知見は医療水準として承認されていたと認定しました。
その上で、本件についても、Yが種々の検査等によっても歯痛の原因が分からなかった場合には、歯科治療である咬合調整を繰り返すことはせず、転院させるなどして、早期に専門医師の下で薬物療法等を受けさせるようにすべき義務があったとしました。
またYにつき、歯科医師の医療水準として、非定形歯痛なる概念を知っていて然るべきであり、Yが、これを知っていれば、咬合調整を6回行い、さらに本件差歯に問題がないことが判明した以上、非定型歯痛を疑うことは容易であったということができる。そうすれば、Yは、3月24日ころには歯科治療である咬合調整を止め、本件歯痛が非定型歯痛である可能性を判断するために、転院させるなどして、早期に薬物治療等を受けさせることが可能であったが、Yは、係る概念を知らなかったために、3月26日以降も、5月20日までの間、合計12回にわたって、咬合調整を繰り返したとして、同期間の咬合調整を初めとする歯科治療には、前記義務に違反する本件診療契約ないし不法行為上の過失があるものというべきであると判断し、咬合調整に関するYの過失を認めました。
Xに対するYの発言が不法行為にあたるか
裁判所は、YがXに対し、3月22日ころの診察の際に、概ね「そんなに度々痛い痛いというのをよその歯医者さんに言ったら、きちがい女と言われますよ」という内容の発言をしたと認定し、その上で「きちがい女」という言葉を使った表現は、それ自体、社会常識に照らして極めて不穏当なものであり、また、Yの前記発言がなされた場面は、単なる対等な会話の中での発言ではなく、歯科医師であるYが、診察の際に、患者であるXに発言したものである。以上のような事情を考慮すれば係る発言はXを著しく侮辱する不当なものというべきであり、Xに対する関係で不法行為に当たるものというべきであると判示しました。
次に、YがXに対し、同日の診察の際、「あなたがそんなに痛い痛いというのは僕に会いたいからじゃないの。」と発言したことを認定し、その上で、Yの係る発言がなされた場面は、歯科医師であるYが、その診察の際に、女性でもあり、患者でもあるXに対しなされたものであって、係る発言はXの立場をわきまえないものである。また、Xとしては、歯痛の治療のため真剣にY医院に通っていたことが推認されるところ、Yのかかる発言はその行動を愚弄するものであり、Xを著しく侮辱する不当な発言であり、不法行為に当たると判示しました。
因果関係
裁判所は、Yによる咬合調整が行われていた当時、既に歯痛が生じていたこと等から、咬合調整に関するYの過失及びYの違法な発言と本件歯痛の発生ないし悪化との因果関係を否定しました。
損害
裁判所は、Yの過失と歯痛との間に因果関係が認められないことから、治療費、休業損害、逸失利益は、Yの過失等による損害とは認められないとしました。
そして、Yの咬合調整の過失に対する慰謝料について、Xは、2ヶ月弱の期間に、合計12回にわたって不適切な治療が継続され、身体的な苦痛とともに精神的な苦痛を受けたとして60万円の、Yの違法な発言に対する慰謝料については合計10万円の額を認めました。
以上により、裁判所は、上記「裁判所の認容額」の範囲で患者Xの主張を認め、損害賠償をYに命じ、その後、判決は確定しました。