東京高等裁判所平成10年2月26日判決 判例タイムズ1016号192頁
(争点)
- 医師らの過失の有無
- 医師の過失と患者Aの延命利益の喪失との間の相当因果関係の有無
- 不誠実な医療自体についての損害賠償責任の有無
(事案)
Aは、損害保険事業を営むY保険株式会社(Y1社)に昭和51年4月に入社した女性社員であった。Y1社は毎年全社員の定期健康診断を実施しており、昭和62年度からは、Y社本店ビルで診療所を経営するY2医療法人財団(Y2診療所)に委嘱していた。
Aは、Y社に入社以来、毎年、同社の定期健康診断を受診しており、昭和60年9月、61年9月のいずれの健康診断でもレントゲン写真の異常はないと診断された。このときのレントゲン写真の読影を担当したのは、Y1社の嘱託医で、内科・呼吸器科を専門とするY3医師であった。
Aは、昭和62年6月17日の定期健康診断において、胸痛および息苦しさを訴え、Y2診療所の勤務医で内科を専門とするY4医師は、上記健診の際に撮影されたレントゲン写真を読影して「異常なし」と診断した。
Y2診療所はY1社を経由して、Aに、定期健康診断の結果を報告書によって通知したが、同報告書には、糖尿病精査のための糖負荷検査受診の指示および右第二弓の軽度突出、右横隔膜の挙上を認めた旨の記載があった。
Aは同年7月14日、Y2診療所において糖負荷検査を受け、その際、Y4医師に6月中旬ころから咳や痰が出て、痰の一部に血の混じることがあったと話し、Y4医師は、同日、Aの胸部レントゲン撮影を行い、その写真を読影した。同年7月27日、Aは、糖負荷検査の結果を聞くためにY2診療所へ行き、Y5医師(内科を専門とする医師でY2診療所の勤務医)から糖尿病の診断を受けた。その際も、AはY5医師に対して、湿性咳の症状があり、時折発作的に咳き込むことがあると訴えた。 Aは、同年8月4日、N大学病院を受診し、同月13日に入院して9月に入ってから化学療法を受けた。更に同年9月17日にT医大病院へ転院し、全身温熱療法を3回受けたが、同年11月20日、T医大病院において、肺癌による呼吸不全により死亡した。
Aの遺族(姉及び兄)が、社内定期健康診断で胸部レントゲン写真の異常陰影が見過ごされ、診療時の訴えも取り合ってもらえなかったために、肺癌に対する処置が手遅れとなり救命も延命もできなかったとして、Y3、Y4、Y5医師並びに医師らの使用者であるY1社及びY2医療法人財団に対して、損害賠償請求訴訟を提起した。
(損害賠償請求額)
患者遺族(姉と兄)の請求額:9774万円
(逸失利益6000万+慰謝料2500万(救命についての患者の慰謝料1500万+延命についての患者の慰謝料500万+遺族2名固有の慰謝料各250万)+弁護士費用1274万))
(判決による請求認容額)
第一審の認容額:0円
控訴審の認容額:0円
(裁判所の判断)
医師らの過失の有無
(1)Y3医師について
裁判所は、Y3医師の読影したAのレントゲン写真のうち、昭和60年9月のレントゲン写真には異常陰影は認められないので、当該レントゲン写真につき「異常なし」と診断したことに過失を認めることはできないと判示しました。次に、昭和61年9月のレントゲン写真には、異常陰影が認められると判断しましたが、本件レントゲン写真が、定期健康診断において撮影され他の数百枚のレントゲン写真と同一の機会に、当該被検者に関する何らの予備知識なく読影された場合、当時の一般臨床医の医療水準を前提にすれば、当該異常を発見できない可能性の方が高いと認定しました。
そして、定期健康診断は、一定の病気の発見を目的とする検診や何らかの疾患があると推認される患者について具体的な疾病を発見するために行われる精密検査とは異なり、企業等に所属する多数の者を対象にして異常の有無を確認するために実施されるものであり、したがって、そこにおいて撮影された大量のレントゲン写真を短時間に撮影するものであることを考慮すれば、その中から異常の有無を識別するために医師に課せられる注意義務の程度にはおのずと限界があると判示して、昭和61年9月のレントゲン写真につき「異常なし」と診断したY3医師の過失を否定しました。
(2)Y4医師について
裁判所は、昭和62年6月17日の定期健康診断の際に提出された総合問診表による諸情報を前提に、昭和62年6月のレントゲン写真を読影した場合には、当時の一般臨床医の医療水準を前提として考えた場合、右下肺野の異常陰影に気づいて、要精査とすべきであったとして、この時点でY4医師がAに対し、精密検査を指示しなかったことには過失があると判断しました。
次に昭和62年7月のレントゲン写真についても、同年7月14日の診察の際のAの訴えと総合しても、当時の一般臨床医の医療水準を前提として考えた場合、やはり右下肺野の異常陰影には気づいて、肺癌、結核、肺炎等を考慮にいれた精密検査が行われるべきと判示しました。そして、この時点で上気道炎を第一に考え、咳・痰に対する消炎剤、去痰剤を処方し、経過観察としたY4医師の判断は誤っていたと認定し、この時点でY4医師がAに対し、精密検査を指示しなかったことには過失があったと判断しました。
(3)Y5医師について
裁判所は、Y5医師がAを診察した昭和62年7月27日の時点で、Y4医師のカルテ及びAの訴えから、直ちに肺癌を疑うことは困難であったといえ、その際、それまでのAのレントゲン写真を取り出して見るか、または新たにレントゲン写真を撮り直すべきであったとまではいえないとして、Y5医師が気管支炎に対する処方をして経過を見るとした判断について過失を否定しました。
この点について、裁判所は、鑑定の結果によれば、昭和62年6月ないし7月の時点でのAの肺癌は、病期ステージⅢa以上に該当するものと推定され、手術が可能であったとしても30%以下の5年生存率となり、リンパ節転移の状況によっては更に延命は困難であり、手術不能の場合、最高の治療を行ったとしても、50%の生存率を1年まで延命することは困難であること、遠隔転移が認められればⅣ期症例となり、それ以上に延命が困難であると認定しました。そして、証人の証言によれば、昭和62年6月ないし7月の時点で肺癌の疑いが認められたとしても、Aの余後に大差はなかったであろうことが窺われ、その時点で適切な処置をしていれば、現実の転帰に比べて相当期間の延命利益をもたらしたであろうと推認できる事情は見当たらないと判示しました。
そして、Y4医師の昭和62年6月及び7月の各時点での過失により適切な処置がとられなかったために、Aの死亡時期を延ばすことができなかったという意味で、医師の過失と延命利益の喪失との間に相当因果関係があるとは認められないと判断しました。
不誠実な医療自体についての損害賠償責任の有無
遺族は、患者は資格のある医師に診療を依頼した以上、当該医師が通常の医療水準に即した診療を行うものと期待し、信頼しているのであり、このような期待は法的保護に値するから、医師の側がこのような患者の信頼ないし期待に背き、重大な過失を犯したときは、治療機会の喪失自体が患者に精神的苦痛をもたらす独立の損害であり、医師に対して慰謝料支払義務を負わせる根拠となると考えられ、あるいは、また、患者のこのような期待に反し、医師がその任務を懈怠した場合には、このような任務懈怠自体が患者に重大な精神的苦痛を与え、医師に慰謝料の支払義務を生じさせるとも考えられると主張しました。
しかし、裁判所は、そのような考え方は、医師の過失と患者に生じた結果との間に因果関係が認められず、従って、当該過失によって損害が発生したとはいえない場合にまで損害賠償責任を肯定することになるので採用できないと判断しました。
以上より、裁判所は遺族の請求を全面的に棄却しました。その後、上告が棄却されて判決が確定しました。