大阪地方裁判所 平成23年1月31日判決 判例タイムズ1344号180頁
(争点)
医師の注意義務(適正診療義務ないし説明義務)違反の有無
(事案)
A(昭和9年生まれの男性)は、16歳で来日し、大学を卒業した後、複数の会社を設立し、代表取締役を務めるなどの活躍をし、B国立大学校から名誉工学博士の学位を、またB国大統領から国民勲章を授与されたほか、学校法人の理事長にも就任していた者であり、日経新聞の購読などを通して、肺がんに関する放射線治療の資料を取り寄せるなどしたこともあった。
Aは、O病院で非小細胞肺がん(腺がん)と診断され、平成16年1月28日、左肺下葉切除術を受けた。Aは、同年2月12日に退院し、以後、経過観察及び治療のため同病院に通院したが、平成17年3月24日、胸部X線検査を受けたところ、がんの再発が疑われたため、同病院から紹介を受け、同年4月4日、Y1学校法人が開設するY大学病院(以下Y病院)との間で診療契約を締結して、Y病院を受診した。そこでY2医師の診察を受けたところ、非小細胞肺がんの再発(ステージIV期)が認められた。Aは、同年5月16日から10月3日までの間、Y病院でプラチナ製剤であるカルボプラチンとゲムシタビンの併用による化学療法を受けた。その後、再発転移の所見は見られなかったが、翌18年4月6日、Y病院においてY2医師の触診を受けた際、頚部リンパ節が触知され、非小細胞肺がんの再発(ステージIV期)が疑われた。
その後、Aは、M社がY2医師を治験調整医師として、Y1大学など国内の複数の施設に依頼して実施されていた治験薬(以下本件治験薬)の第II相臨床試験(以下「本件治験」という)に参加し、平成18年4月21日及び同月28日に本件治験薬の点滴投与を受けた。
同18年5月2日、Aは、肺炎などを疑われてY病院に入院し、同月22日に、転院先の医療センターで死亡した。
Aの遺族(妻)であるXが、Y病院の医師に注意義務違反があったとして、不法行為又は診療契約上の債務不履行に基づき、Y1学校法人、Y2医師、Y3医師(Y2医師と同じくY病院でXの診察を担当した医師)に対して、損害賠償を求めた。
(損害賠償請求額)
遺族(妻)の請求額:計4015万円
(内訳:逸失利益1000万円+慰謝料2500万円+固有の慰謝料1000万円-損害の填補850万円+弁護士費用365万円。なお、患者の法定相続人は妻と4人の子供であるが、損害賠償請求権を妻だけが相続することに合意した)
(判決による請求認容額)
裁判所の認容額:0円
(裁判所の判断)
医師の注意義務違反(適正診療義務違反ないし説明義務違反)の有無
Xが、Y2らは、AがY2らの説明内容を理解し、提示された選択肢の中から適切に本件治験薬の投与を選択した場合を除き、Aに対し、適正診療義務として、標準的化学療法であるドセタキセルの投与を行う注意義務があったと主張したのに対し、裁判所は、次のように述べてY2らの適正診療義務違反を否定しました。
- (1)標準的化学療法としてドセタキセルの投与を行う注意義務があったか
裁判所はまず、肺がん専門家らによる「EMBの手法による肺癌ガイドライン」(以下「本件診療ガイドライン」という)は、プラチナ製剤等による治療から再発した非小細胞肺がん患者に対してはドセタキセル投与が勧められるとし、平成16年ないし19年に発行された文献においても、第二次治療としてドセタキセルの投与が標準治療であると記載されていると指摘しました。
しかし、非小細胞肺がん患者の予後は不良であり、ステージIV期の非小細胞肺がん患者の予後は特に不良であるところ、再発例を含む同患者に対する治療方法については、平成18年4月以降現時点までの間、ドセタキセルを含め特に優れているとされる治療方法はなく、現時点においても研究途上にあって、臨床試験を実施してより良い治療方法を模索している段階であるといえるとしました。その上で、本件診療ガイドラインはあくまで指針であって強制力を有するものでないこと等を併せて考慮すると、ドセタキセルの投与は平成18年4月当時、医療水準として確立した治療方法とまで認定するのは困難であるといわざるを得ないと判断しました。
したがって、Y2らが、平成18年4月時点において、Aが医師の説明を十分に理解した上で自由意思により他の治療方法を選択しない限り、Aに対してドセタキセルを投与する法的注意義務を負っていたということはできないと認定しました。
- (2)本件治験薬の投与の実施は注意義務違反にあたるか
上記のように、非小細胞肺がん患者に対する治療法は、平成18年4月時点において研究途上であったところ、(1)本件治験は、Aに対する治療の一環として実施され、Aも一貫して非小細胞肺がんに対する最善の治療を受けることを希望していたこと、(2)本件治験薬と同種の薬剤が有用であることを示唆する臨床試験結果が報告され、本件治験薬自体も第I相試験において、一定程度の有用性を示唆する結果が得られていたこと、(3)Aは、ゲフィチニブの効果が乏しい体質であったが、本件治験薬はゲフィチニブと作用機序が異なるため、Aにも効果を有する可能性があったこと、(4)本件治験においては、治験薬投与開始後に間質性肺炎が発症した場合には医師の判断により投与を中止し、可能な限り最善の処置を行うとともに、場合によっては本件治験全体を中止することが定められていたこと、を指摘し、平成18年4月時点において、本件治験は医学的に相応の合理性(適応)と必要性を有するもので、Aに対して本件治験薬を投与することについても、医学的に相応の合理性(適応)と必要性があったと判断しました。また、本件治験薬の投与により重篤な副作用が生じる可能性は少ないと考えられており、副作用が生じた場合の対処方法も定められていたから、本件治験薬投与の相当性も否定できないとしました。
したがって、Y病院の医師が、平成18年4月当時、ステージIV期の非小細胞肺がんの化学療法後に再発し、二次治療の段階にあったAに対して本件治験薬の投与を実施したことは、医師の医学的裁量を逸脱するものとはいえず、その投与を注意義務違反と評価することはできないと判断しました。
説明義務違反について
Xは、Aが本件治験に参加するにあたり、Y2医師による本件治験の説明が不十分であったと主張しました。
この点につき、裁判所は、 Y2は、医学的説明に対しても高度の理解能力を有するAに対し、本件治験が治療を目的とするものであること、当該治験の目的、治験の方法、本件治験薬の医学的根拠及び考えられる副作用等、本件治験の必要性ないし合理性や、Aへの適応性、他の治療方法に関する情報、治験の参加をいつでも取りやめることができ、治験に参加しないこと、又は参加を取りやめることによりAが不利益な取り扱いを受けないこと、健康被害が生じた場合の対応など、Aが利益と危険性を比較考量して、本件治験を受けるか否かを自由な意思でもって任意に判断するのに十分な事項を説明したものと評価することができると判断しました。
そして、Aの主治医であったY2に適正診療義務違反ないし説明義務違反が認められない以上、Y3他Y病院の医師もこれらの義務違反による責任は認められない、と判断し、これを前提としたY1学校法人の責任も認めることはできない、と判示しました。
以上より、裁判所はXの請求を全て棄却しました。