東京地方裁判所 平成16年1月30日判決 判例タイムズ1194号243頁
(争点)
- 患者の死亡自体に関する東京都の義務違反の有無
- 患者死亡後の各被告らの行為に関する義務違反の有無
(事案)
患者A(本件事故当時58歳の女性)は、平成11年2月8日、慢性関節リウマチ治療のため、Y1医師が院長を務めるY都立病院(以下、Y病院)に入院し、同月10日、主治医であるY2医師(整形外科医師)の執刀により、左中指滑膜切除手術を受けた。同手術は無事に終了し、術後の経過は良好であった。
翌11日午前9時ころ、Y2医師がAに対して抗生剤を静脈注射した後、看護師らに、血液凝固防止剤であるヘパリンナトリウム生理食塩水(以下、ヘパ生)を点滴器具に注入して管内に滞留させ、注入口をロックする措置を行うように指示した。ところが、看護師らが他の入院患者に対して使用する消毒液ヒビテングルコネート液(以下ヒビグル)をヘパ生と取り違えて用いたため、Aの容態は急変し、同日午前10時44分、死亡した。
翌12日朝、Y1医師、副院長2名、事務局長Y3、医事課長、庶務課長、看護部長、看護科長及び看護副科長による対策会議が開かれ、事故について警察に届け出ることにいったんは決定した。
しかし、病院の監督官庁である東京都衛生局病院事業部に警察へ届け出ることを相談したところ、病院事業部の部長Y4及び副参事Y5らは、マニュアルを検討した結果、医療事故が生じた際に、医師又は看護師の過失が明白な場合については病院は警察に届け出なければならないという点を理解した。しかし、Y5はY病院に赴き、病院事業部の見解を伝える際、仮に誤投薬の可能性があったとしても、病院事業部としては警察への届出に消極的である意向が看取できる発言をY病院の幹部らに対して行った。
そこで、Y病院の医師らは方針を変更し、警察への届出をしなかった。そして、Aの遺族であるXらの了解を得た上で、同日午後1時、Aの病理解剖を行った。その結果、Aの死亡は薬物の誤投与によることをY1医師は認識し、Xらに対して、主要臓器には異常がなく、薬の取り違えの可能性が高いことを伝えたが、警察への届出がなされたのは、Aの夫であるX1が、病院の方から警察に届け出ないのであれば、自分で届け出る旨を述べた同月20日の2日後の22日であった。
その後、Y2医師は、Xらから死亡診断書の作成を依頼され、Y1医師の意見に従い、死因を病死とした死亡診断書及び死亡証明書を作成した。Y病院のB医長からは病死との記載は問題だと進言されたにもかかわらず、そのままY3からX1に交付された。
同年5月31日ころ、警視庁において、Aの血液からヒビグルに由来すると考えられる物質がかなりの高濃度で検出されたとの鑑定結果が出された。Xらは、Y病院に対して、同病院の対応等における疑問についての釈明を求めたが、Y病院は申し入れに応じなかった。
同年8月27日、都の都立病産院医療事故予防対策推進委員会は、Aは、ヒビグルを誤注入されたことにより死亡したと考える旨の報告書を作成して公表し、東京都知事が定例記者会見でXらに謝罪した。同年11月23日、Y病院医師らも、ヒビグルの誤注入によることを認めてXらに謝罪した。
Aの遺族であるXらは、Y病院の担当看護師の投与薬剤の取り違えという基本的注意義務違反の過失及びY病院においてそのような危険を回避することが可能なシステムを構築せずに危険な医療を提供してきたという組織構造上の過失によってAの死がもたらされ、その上、Y病院のY1院長、Y2医師及び事務局長Y3、東京都の衛生局病院事業部長Y4及び同副参事Y5(以下、まとめる時は「Yら」)には、Aの死後の対応における原因究明義務及び情報開示・説明義務違反があるとして、それぞれ債務不履行又は不法行為に基づき、損害賠償を求めて訴えを提起した。
なお、本件に関し、Y1医師(院長)は停職1ヶ月、Y2医師(主治医)及びY4衛生局病院事業部長は戒告、Y3病院事務局長は口頭注意の各処分を受けた。
(損害賠償請求額)
遺族らの請求額:東京都のみに対するもの 計1億3150万6987円
(内訳:患者の逸失利益3150万6991円+患者固有の慰謝料8000万円+遺族の慰謝料計1100万円(夫500万円+父300万円+妹300万円)+葬儀費用150万円+弁護士費用計749万9998円。患者の損害を相続した遺族が複数いるため、端数不一致。)
東京都・院長・主治医・病院事務局長・都衛生局病院事業部長・都衛生局病院事業部副参事に対するもの 計1380万円
(内訳:東京都と院長に対し720万円+東京都と主治医に対し360万円+東京都と病院事務局長に対し120万円+東京都と都衛生局病院 事業部長に対し:120万円+東京都と都衛生局病院事業部副参事に対し:60万円)
(判決による請求認容額)
裁判所の認容額:東京都のみに対するもの 計5877万9369円
(内訳:患者の逸失利益2392万9370円+患者固有の慰謝料2300万円+遺族の慰謝料計500万円(夫300万円+父200万円+妹0円)+葬儀費用120万円+弁護士費用540万円+東京都が国賠法に基づき賠償責任を負う、都衛生局病院事業部副参事の助言義務違反行為についての遺族の慰謝料(夫10万円+父5万円+子供2人各5万円)
東京都と院長に対するもの 100万円(連帯責任)
東京都と主治医に対するもの 50万円(連帯責任)
(裁判所の判断)
患者の死亡自体に関する東京都の義務違反の有無
看護師らの注意義務違反の競合(一人の看護師が患者に投与する薬剤の種類を十分確認して準備すべき注意義務を怠り、「ヘパ生」入りの注射器には「ヘパ生」と黒色マジックで記載されていたにもかかわらず、記載の無いヒビグル入り注射器をヘパ生入り注射器と誤信して患者Aの病室に持参して、床頭台におき、もう一人の看護師は、「ヘパ生」との記載を確認して薬剤の点滴をすべきであるのに、漫然、床頭台に置かれていた注射器にはヘパ生が入っているものと軽信し、同注射器に入っていたヒビグルをAに点滴して誤薬を投与した)によりAの容態が急変し、死亡に至ったことについては、遺族らと東京都との間において争いがなく、他の被告との関係でもこの点は認定されました。
次に、東京都の組織構造上の過失の有無について、遺族らは、Y病院には、何らかのミスが生じても重大な結果を生じさせないための危険回避のシステムが構築されていなかったと主張していました。
しかし、裁判所は、一定の措置を講じることによって、本件医療事故のような医療事故が生じる可能性をできるだけ低くすることができるとしても、看護師らは、医師から投与を指示された薬剤を取り違えないという、いついかなる場合においても、看護師が患者に対して怠ることを許されない義務を、極めて初歩的な態様によって怠ったものであるから、Aの死亡という結果は、Y病院や東京都の看護及び投薬のシステムに何らかの問題があったからこそ生じたものではなく、専ら看護師らの個人的注意義務の懈怠によって生じたものというべきものであり、遺族らが主張するY病院のシステムとAの死亡との間の相当因果関係を認めることができない、と判示して、この点に関する東京都の責任を否定しました。
患者死亡後の各被告らの行為に関する義務違反の有無
(1)東京都について
まず、裁判所は、患者と病院開設者である東京都との間には診療契約が締結されたとしても、同契約は準委任契約であるから、当該患者が死亡すれば、同契約は終了するが、ア)医療行為に関する情報は病院側が独占しており、しかも、病院側は当該情報にアクセスすることが容易であること、イ)医師は医療行為をつかさどる者として、一定の公的役割を期待されており、医師法21条の規定する届出義務もその1つの現れと見ることができること、ウ)医療行為により悪い結果が生じた場合、当該患者が生存している場合は、医師には患者に対しその経過や原因について説明する必要があるところ、より重大な患者の死亡という結果が生じたにもかかわらず、医師が説明する義務を何ら負わないというのは不均衡であることからすれば、診療契約の当事者である病院開設者としては、患者が死亡した場合には、遺族からその求めがある以上、遺族に対し、当該事案の具体的内容、保有する又は保有すべき情報の内容等に応じて、死亡に至る事実経過や死因を説明すべき義務を、信義則上、診療契約に付随する義務として負うというべきである、と判示しました。また、その前提として、具体的状況に応じて必要かつ可能な限度で死因を解明すべき義務を、信義則上、診療契約に付随する義務として負うというべきである、とも判示しました。
(2)Y1医師(Y病院院長)について
裁判所は、Y1医師が、院長であり、本件対策会議の主催者であったから、本件医療事故についてのY病院としての対応方針を決定するに当たり、大きな影響力を有していたといえることから、遺族らに対し、本件医療事故について主体的に死因解明及び説明義務を履行すべき立場にあったと認定しました。
そして事実経過に照らせば、Y1医師は、解剖結果の報告を受けた段階においては、本件医療事故を警察に届け出なければならなくなったにもかかわらず、あえて2月22日まで届出をしなかったというべきであり、たとえその当時においてAが病死した可能性も完全に否定されたわけではなかったことを考慮に入れたとしても、Y1医師は、必要かつ可能な死因の解明を行ったとはいえない、と判示して、Y1医師の死因解明義務違反を認めました。
また、裁判所は、本件において、死亡診断書は保険金を請求するために保険会社に提出するものであり、Aの遺族に対して何らかの説明をするために用いられたものではないが、既に、本件医療事故につき、警察への届出を経て、Aの死亡は、薬の取り違えによる可能性が高い旨、遺族がY病院側から説明を受けていた当時の状況の下において、Y1医師は、Aが病死や自然死ではないことが明らかであったにもかかわらず、その事実を認識した上で、上記死亡診断書の死因を病死として作成させ、さらに、B医長から病死との記載は問題である旨進言されたにもかかわらず、同死亡診断書をそのまま遺族に交付するように指示し、その結果、Aの遺族に対し、Aの死因につき混乱と不審を招いたものであって、説明義務違反に当たる、と判示しました。
また、Y1医師の上記行為につき、東京都も不法行為責任(民法715条)を負い、Y1医師と連帯(不真正連帯)して損害賠償責任を負うと判示しました。
(3)Y2医師(主治医)について
裁判所は、Y2医師は、Aの主治医であり、かつ、Aの死体を検案し、医師法21条の届出義務を負っていたのであるから、主体的に死因解明及び説明義務を履行すべき立場にあったと認定しました。その上で、Y2医師は、平成11年2月11日、医師から看護師が薬剤を間違えて注入したかもしれないと言っていることを知らされた上、主治医であったY2医師にも、Aの症状が急変するような疾患等の心当たりが全くなく、さらに、翌12日に行われた病理解剖に立ち会い、Aの死体の右腕の静脈に添って赤い色素沈着がある異状を認めたのであるから、警察へ届け出なければならなくなったにもかかわらず、漫然とY病院の方針に従い、自ら警察へ届け出なかったことからすれば、たとえその当時において亡Aの病死の可能性も完全に否定されたわけではないとしても、Y2医師は、必要かつ可能な死因の解明を行う義務を怠った、と判示しました。
また、裁判所は、Y1医師と同じ理由で、Y2医師にも説明義務違反を認めました。
さらに、Y2医師の上記行為につき、東京都も不法行為責任(民法715条)を負い、Y2医師と連帯(不真正連帯)して責任を負うと判示しました。
(4)Y3(Y病院の事務局長)について
裁判所は、Y3が、病院での対策会議において、本件医療事故について警察への届出をすべきであると発言しており、むしろ死因解明義務を尽くす方向で行動していたとみることができること、また、死因解明及び説明義務が専ら医療行為の特殊性から導かれることからすれば、医師ではなく、医療行為の専門的知識を有しない事務局長においては、警察への届出をすべきであるとの立場を表明したものの、警察に届け出ないことをいったん決定された以上は、その後において当該決定の趣旨に従って行動すること自体を死因解明義務違反として問題とすることはできない、等の理由で、Y3の死因解明義務違反は認めませんでした。
(5)Y4(都衛生局病院事業部部長)について
裁判所は、Y4は、病院事業部副参事Y5の報告を受けて、Y病院で薬を取り違えた可能性のある入院患者が死亡したこと、及び遺族から病理解剖の承諾を既に得ていることしか知らず、Y病院が警察に届け出る方針にいったん決めていたことを知らなかったことも勘案すれば、「病理解剖の承諾が取れているなら、遺族にすべてを話して了解を得られれば、それでいったらいいじゃないか。」とY5に指示を出したとしても、それ自体が原因究明を妨害する発言とはいえないのであって、Y4の発言はあながち不当とまではいえず、Y病院に対する行政監督庁である病院事業部の部長として、Y病院が本件医療事故に適切に対応できるように助言すべき義務の違反は認められない、と判示しました。
(6)Y5(都衛生局病院事業部副参事)について
裁判所は、Y5は、Y病院に赴き、同病院に対する監督官庁である病院事業部の見解を伝えた者であり、同病院が本件医療事故に適切に対応できるように助言すべき立場にあったところ、平成11年2月12日、Y病院において本件医療事故を警察に届け出るかどうかが問題になっていることを認識した上で、同病院に赴き、Y1医師ら同病院の幹部らに対し、仮に誤投薬の可能性があったとしても、病院事業部としては警察への届出に消極的である意向が看取できる発言をし、それにより、Y病院がいったん決めていたところの、本件医療事故を警察に届け出るという方針が覆ってしまったという結果を招来し、結局、同月20日の中間報告の際に、X1(Aの夫)から、病院の方から届け出ないのであれば、自分で届け出ると言われるまで、警察に届け出なかったこと、及びY5は、病院事業部として、同月15日にY病院からAの死因が急性疾患とはいい難く、薬剤の取り違えによる可能性がある旨の報告書を受領したにもかかわらず、Y病院に対し警察に届け出るように再考を促すような行動を取った形跡が何らうかがえないことも併せ考えれば、Y5の上記発言の影響力によって、Y病院において適切に死因解明義務を履行できなかったというべきである、と判示して、Y4同様Y5の助言すべき義務の違反を認めました。
もっとも、裁判所は、Y5は病院事業部に勤務する地方公務員であるところ、助言すべき義務は都の行政監督庁としての側面に着目して導き出される義務である上、Y5の上記義務違反行為は行政としての立場からの独自の行為であると言えるのであって、そのために同行為には国家賠償法が適用されると判示しました。そして、国家賠償法が、国又は公共団体に責任を負わせることで被害者救済の目的は達することができるのであり、公務員の個人責任を認めるとすれば、かえって公務員が萎縮し、公務の停滞を招きかねないといえることなどからすれば、Y5が上記行為について個人責任を負うと解することはできないと判示し、Y5の個人責任は否定したうえで、Y5の上記行為につき、東京都は国家賠償法に基づき、損害賠償責任を負うとしました。
以上から、裁判所は、上記裁判所の認容額の範囲で遺族の請求を認めました。Y1医師は控訴をして、一審判決後に東京都がY1医師と連帯して支払義務を負っていた遺族への慰謝料を支払ったことから、その限りでY1医師の損害賠償債務も消滅したとして敗訴の判決部分は取り消されました(平成16年9月30日東京高等裁判所判決・判例時報1880号72頁)。