東京地裁平成18年6月15日判決 (出典ウェストロー)
(争点)
専門的裁量性を有する医師の医療事故における刑事責任と量刑の事情
(事案)
患者A(以下、A)は、平成10年6月ころから、B1大学B2病院(以下、B病院)泌尿器科の外来を訪れていたが、平成14年9月、Y2医師(Aの主治医)やY3医師(泌尿器科において研修医を除くと最も若い年次の医師)の診察を受け検査入院したところ、同月20日、前立腺癌であるとの結果が出た。同月28日、Y2医師はAに告知し、治療方法として手術、放射線治療、ホルモン療法の3種類があることを伝えた。Y2医師はこのころから、Aに対してY2医師、Y3医師及びY1医師(平成2年に医師となり、平成7年には日本泌尿器科学会の専門医、平成12年には同じく指導医の認定を受けていた)の3名(以下3名あわせてY医師らという)、腹腔鏡下前立腺全摘除術(本術式)による手術を行うことを考え始めていた。
Y2医師は、同年10月7日、Aとその妻に、手術について説明したが、開腹術と腹腔鏡下術のメリット、デメリットについては十分な説明をせず、また、腹腔鏡下術が保険の適用外であることや、Y医師らに術者としての経験がないことについては説明をしなかった。そのため、Aは、早期の離床・退院が望めるとの説明を受け、本術式を希望することをY2医師に告げた。Aの入院は同年11月5日、手術は同月8日と決まった。
Y2医師はY1医師に対し、Aの手術の術者になることを依頼し、Y1はいったん遠慮したものの、これを引き受けた。
手術前に3回カンファレンスが開かれ、泌尿器科のC診療部長は、その度に指導医を呼ぶことを提案したが、Y2医師が自分たちだけでやることを求め、C診療部長も、開腹術に途中から移行すれば手術を終わらせることができるだろうと考え、最終的に本術式の施行を許可した。
本件事故までに、Y医師らは、腹腔鏡下術の術者としての経験はあったが、本術式については、Y2・Y3医師には、術者、助手のどちらの経験もなく、Y1医師も助手としての経験が2例あるだけであった。
同年11月8日午前9時45分ころ、Y1医師が術者、Y3医師が第1助手、Y2医師が第2助手(腹腔鏡操作)という役割でAに対する本件術式での手術が開始され、内骨盤筋膜切開等までのステップは比較的順調に推移していたが、午前11時58分ころ、Y1医師がツッペルで前立腺表面をこすりすぎて、前立腺表面を覆う前立腺筋膜の深陰茎背静脈(以下、DVC)の束の左側から出血させた。
午後0時13分ころから、DVCの結紮処理に入ったが、Y医師らは、運転操作を誤るなどして、通常15分から20分で終わるべきDVCの結紮処理に約2時間かかり、しかも、十分な結紮処理はできないまま、次のステップに進むことにした。
午後2時18分から午後3時20分ころまでかけて、膀胱頸部が離断されたが、その間もDVCからの出血が続いたため、Y1医師が出血部位を探したが、ツッペルで出血部位を押したため、出血がさらに激しくなり、結局、午後3時26分から午後5時33分ころまで約2時間かけて、再度DVCの結紮処理をしたが、止血はできず、かえって傷口を広げるなどした。
Y1医師は、このころ開腹術への移行をY2医師、Y3医師に提案したが、腹腔鏡下術で続行することになった。
午後5時27分から7時30分までの間に、術者を代わりながら、DVC及び尿道の切開、前立腺の離断及び摘出が行われたが、この間にもDVC周辺の組織を傷付け、さらに出血させた。Y1医師は、この間に開腹術への移行を再度提案したが、Y2医師に反対され、本術式による手術が続行された。この間の午後6時20分、麻酔科指導医D(以下、D医師)は、血液ガス検査の結果を知り、本件の麻酔医E(2年目の研修医)に、MAP4単位の投与(輸血)を指示し、午後6時50分ころ、投与が開始された。
午後8時10分ころ、Y1医師は再度開腹術への移行を提案したが、Y2医師、Y3医師の反対を受け、継続することになった。
午後8時50分ごろ、D医師は判断し、Y医師らに、手術が長時間になっていることを指摘し、開腹術に移行するよう強い口調で怒鳴った。しかし、D医師はヘモグロビン値等の検査結果を伝えなかったため、Y医師らは、出血が継続しているとは思わず、しばらく本術式を継続したが、午後9時20分ころから25分ころ、開腹術に移行した。
D医師は、ヘモグロビン値をY医師らに伝えなかったため、Y医師らはAが重篤な状態に陥っていることを知らず、この間も、開腹術を進め、午後10時35分ころ手術を終えて閉腹した。
Aの心拍数、血圧が低下したため、心臓マッサージや輸血がポンピングで行われた結果、Aの循環動態は落ち着きを見せた。しかし、Aは、麻酔から覚醒せず、同年12月8日、低酸素脳症に起因する肺炎により死亡した。
(裁判所の判断)
専門的裁量性を有する医師の医療事故における刑事責任と量刑の事情
まず、事案の概要として、裁判所は、Y医師らは、いずれも本件当時高度先進医療とされていた本術式を安全に施行するための知識、技術及び経験がなく、本術式を施行すれば、DVCなどの結紮処置が十分にできず、開腹手術への変更の判断が遅れて大量出血となり、患者が低酸素脳症による脳死に至るおそれがあることを十分予見できたのであるから、患者の生命身体に危険のある本術式を選択することを厳に避けるべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、本術式を安全に施行することができるものと軽信し、共同して本術式により手術を開始した過失により、運針操作を誤り、DVCの十分な結紮ができず、またDVCの傷口を広げるなどして大量出血させ、被害者を低酸素脳症に陥らせ、手術から約1ヶ月後に低酸素脳症による脳死に起因する肺炎により死亡させたという事案であると判示しました。
次に、裁判所は医師らに共通の事情として、自分たちの技術水準を正確に認識し、患者の生命身体に対する十分な安全対策を施して手術に臨むという医師の基本を忘れ、自分たちの能力を過信し、患者の生命身体に対する十分な安全対策を講じないまま本術式を施行したもので、その過失の程度は大きいとしました。
また、本術式を選択する必要性・緊急性がなく、一般的な開腹での前立腺全摘除術と比較して多大なメリットがあるともいえない本術式を施行した上、開始後、何度も開腹術へ移行する機会がありながら本術式を続行したものであって、患者の安全や利益より、本術式の経験を少しでも積みたいという自己中心的な利益を優先していたことも否定できず、強い非難に値すると判示しました。
さらに、あらゆる専門家と同様、医師の裁量もまた無限定に医師の行為を聖域化するものではなく、自らの技術を顧みずに何を行ってもよいわけではないことは明らかであるとして、医師の専門性の名の下に免責を主張すること自体が、医師の専門性に対する国民の信頼を深く傷つけるものであるとも指摘しました。
その上で、Y1医師について、3名の中で最も医師としての経験が長く、腹腔鏡下術及び本術式についても最も経験を積んでいたのであるから、冷静に判断すべき立場にあったにも拘わらず、主治医のY2医師から執刀を依頼されるや安易にこれを受諾し、倫理委員会への申請や、指導医の招聘を行うことなく、3名だけで本術式を開始しており、その責任は重く、手術においても被害者の前進状態の把握を怠り、開腹術に変更する機会があったにも拘わらず、Y2やY3に言われるがままに腹腔鏡下術を続けたのであって、強い非難に値すると判示しました。
Y1医師に有利な事情として、B大学泌尿器科の診療部長が監督義務を果たしていなかったこと、麻酔科医が被害者の全身状態の把握に必要な情報を殆ど伝達していなかったこと、Y2医師により適切なインフォームド・コンセントがなされたと聞いていたこと、本件に至るまで本術式を熱意を持って真面目に研修していたこと、本件の結果大学を解雇され、医業停止の処分を受けるなど一定の社会的制裁を受けていることなどを斟酌し、検察官の求刑禁錮2年6月に対し、禁錮2年、執行猶予4年の判決を言い渡しました。