東京地裁平成15年5月7日 判例タイムズ1182号289頁
(争点)
- 白内障手術中に毛様体を損傷した過失の有無
- 9月2日の外来診療時に網膜剥離を見逃した過失の有無
- 9月9日に網膜剥離を発見した後、緊急手術を実施しなかった過失の有無
- 損害
(事案)
X(大正9年生まれのリハビリ専門医)は、平成5年2月24日から左眼の視力低下と視野欠損を訴えて、国立のY医科大学校病院(以下、Y病院)に通院し、原発解放隅角緑内障と診断された。同年9月2日には、これに対する手術を受けたが、左眼に視野狭窄が残った。
Xは、平成10年6月2日、Y病院で右眼の白内障が少しずつ進行しているとの診断を受け、同月3日の検査により水晶体皮質混濁が認められたため、これに対する手術を受けることになり、同年8月18日にY病院に入院したが、その時の右眼視力は0.6であり、視野は正常であった。
Xは、同月20日、Y病院眼科のA医師の執刀で右眼の白内障手術(水晶体嚢外摘出術と眼内レンズ挿入術)を受けた。A医師は、水晶体核の摘出をしたが、この際に硝子体圧が高かったため、水晶体後嚢が破損して硝子体が眼外に脱出してきた。A医師は、必要な処置をした上で経過観察をしたが脱出が進行する徴候はなかったため、手術を続行した。その後、水晶体の残存皮質の吸引時に上耳側の毛様体上皮が鋸状縁の部位から剥離した。そこで、A医師は眼底検査を行ったが、眼底後極部に網膜剥離は認められなかったため、手術を続行した。
その後、同月30日の退院時まで、Xには硝子体出血や硝子体混濁が見られ、フィブリンも認められた。同月28日の右眼視力は0.1であったが、翌日の眼底検査でも網膜剥離は認められず、硝子体混濁も徐々に消失していった。
同年9月2日、Xは、Y病院で診察を受け、B医師は眼底検査により周辺部に膜様物の立ち上がりがあることを認めたが、後極側に網膜剥離が生じていないことを確認し、膜様物については検査をしなかった。この時のXの右眼視力は0.1であり、Xは、飛蚊症に悩まされているとか、多重複視の症状があると訴えていた。
その後、同年9月9日の診察で、眼底検査の結果、A医師は上耳側周辺部に限局性の網膜剥離を発見した。B医師、C医師もXを診察し、中間周辺部まで及ぶ上耳側胞状剥離と、下方の巨大裂孔を認めた。A医師は、Xに対し、網膜剥離が発見されたので手術を実施する必要があるとの説明をし、翌日の9月10日か11日に入院することを勧めたが、その際に、緊急手術をしなければ網膜剥離が進行して視力が著しく低下し、場合によっては失明の危険があるというような説明は行わなかった。
Xは、9日の時点では自覚症状である視野欠損がなく、A医師の説明からも切迫性や緊急性を感じなかったため、自分の勤務の都合で同年9月12日に入院したいと希望した。これに対し、A医師は、もっと早くしなければ手遅れになるおそれがあるというような反論や説得は行わず、9月11日入院、14日手術という予定をした。
ところが、翌10日、右眼に視野欠損が自覚されてきたため、Xは11日午前9時30分に入院した。Xは入院時から右眼の飛蚊症と視野欠損を訴えていたが、当日は、C医師やA医師らがN学会に出席していたため、学会が終わってD医師が帰院した夕方まで医師による診察は行われなかった。D医師は診察において右眼周辺部に強い網膜剥離を認めたが、この時はまだ剥離が黄斑部に達しておらず、Xの右眼視力は0.4であった。
同月12日には、Xの網膜剥離はさらに悪化し、黄斑部にも剥離が及んで、右眼のほぼ全視野について欠損が生じたが、C医師、A医師とも、予定通り9月14日に手術を実施すれば視機能を回復させることができると判断し、緊急手術実施の決定をしなかった。
同月14日に網膜剥離に対する硝子体手術が行われたが、同年10月7日の検査ではXの右眼視力は0.1であり、その後もXは平成11年1月13日までY病院に通院したが、回復しなかった。
その後Xが他の大学医学部付属病院に転院した後、平成11年4月15日の検査で、右眼にも視野狭窄が認められ、平成12年5月22日には、右眼視力は0.04で矯正不能、網膜剥離後の網膜変性により視力回復は不能と判断された。
Xは平成14年11月21日、両眼の視野障害により身体障害程度等級2級の認定を受けて、身体障害者手帳の交付を受けた。
Xは、Y病院を運営する国に対し、医療契約上の債務不履行、不法行為に基づき、損害賠償請求を提起した。
(損害賠償請求額)
患者の請求額: 計9769万7805円
(内訳:休業損害525万1394円+逸失利益6744万6411円+慰謝料2000万円+弁護士費用500万円)
(判決による請求認容額)
裁判所の認容額:計2734万2179円
(内訳:休業損害0円+逸失利益1684万2179円+慰謝料800万円+弁護士費用250万円)
(裁判所の判断)
白内障手術中に毛様体を損傷した過失の有無
この点につき、裁判所は、Xに対する手術中には、水晶体核の摘出時に後嚢が破損して硝子体が脱出してきたり、残存皮質の吸引時に上耳側の毛様体上皮が鋸状縁の部位から剥離するという異常事態が発生したが、これらが、A医師が手術器具を誤るなどしたことによって発生したものと認めるに足りる証拠はないとして、毛様体の損傷についてのA医師の過失を否定しました。
9月2日の外来診療時に網膜剥離を見逃した過失の有無
この点につき、裁判所は、まず、多重複視を網膜剥離の症状と認めるべき証拠はない、としました。そして、飛蚊症については網膜剥離の初期症状の1つに数えられるが、硝子体出血や水晶体皮質の混入などによる硝子体混濁も飛蚊症の原因となる、と判示した上で、本件では、白内障手術中に水晶体後嚢の破損が起こり、硝子体出血や水晶体混濁が発生して、Xは手術直後から飛蚊症の症状を訴えていたのであるから、この時点でもその飛蚊症が残存していると考える余地があり、9月2日の時点で直ちに網膜剥離の発生を疑うことは困難であった、として、B医師の過失を否定しました。
9月9日に網膜剥離を発見した後、緊急手術を実施しなかった過失の有無
この点につき、裁判所は、まず、9月9日の時点では、Xに網膜剥離の自覚症状がなく、剥離も上耳部に限局されていたから、A医師が9月11日に入院させて14日に手術を実施すると予定したことには過失があるとはいえない、としました。
しかし、裂孔原性網膜剥離は、いったん発生すると自然に治癒する可能性は極めて小さく、放置すれば剥離が黄斑部に達して視力の著しい低下を招き、失明に至ることもある疾患であり、陳旧化すると剥離した網膜に線維膜が形成されて、網膜が剥離したままの形で器質化するおそれもあるから、症状が急速に悪化した場合には、緊急手術を実施して、剥離した網膜を早期に復位させる必要がある、としました。
その上で裁判所は、Xの症状が急速に悪化し、網膜剥離が黄斑部に達したことが判明した9月12日の時点では、Y病院の医師には14日に予定していた手術を繰り上げて、直ちに緊急手術を実施すべき義務があった、と判示しました。そして、C医師やA医師は、原告の網膜剥離が黄斑部に達したことを認識しながら、直ちに緊急手術を実施せず、9月14日まで網膜剥離の進行を放置した、として、医師らの過失を認めました。
以上より、裁判所は、上記裁判所の認容額記載の金額で患者Xの主張を認め、損害賠償の支払いを国に命じました。