東京高等裁判所平成13年9月12日 判例時報1771号91頁
(争点)
- 患者Aの死因
- 薬剤投与上の注意義務の有無
- 鎮静剤投与後の経過観察義務違反の有無
(事案)
患者A(死亡当時42歳の男性)は、家業である酒類等販売業に従事し、主として配達等をしていたが昭和49年ころから統合失調症に罹患し、医療法人Yの経営する単科の精神病院であるY病院(以下、「Y病院」という。)に過去5回にわたり、入院治療を受けていたことがあった。
平成8年1月10日、Aは妻に付き添われてY病院を訪れ、診察に当たったB医師に対し、「気分が落ち込む」「眠れない」などと訴えた。B医師は、Aの精神状態から、Aには休息入院が相当であると診断し、2週間は外泊しないこととの条件をつけた。
同月19日、AはY病院に入院した。同月20日、Aは病院の廊下にペットボトルに入った水を撒き、これを医師に注意されると、怒り出し、医師に殴りかかろうとした。そのため、医師らはAに対する対応を協議し、Aを保護室に収容することとした。看護師はAに対して看護室に来るようにと院内放送をし、さらに直接声をかけたが、Aは看護室に来ようとしなかった。医師と看護師らは直接Aの病室に行き、看護室に来るようにAに促したところ、Aは怒鳴り、暴れ出した。そこで、医師と看護師らはAを押さえつけ、イソミタール2Aを10CCに溶解した上、Aの左手背に約10分かけて静脈注射し、LP2Aを筋肉注射した。
注射が終わり、Aが入眠すると、午前11時50分ころ、Aは保護室に収容された。午後1時ころ、保護室を担当するC看護師がAの観察を行ったところ、Aはやや舌根沈下気味であった。C看護師は、Aを左側臥位して様子を見ることとし、Aの状態を精神保健指定医のH医師に報告した。H医師は、C看護師に、念のためにAの血圧や全身状態をよく観察するようとの指示を出した。
午後1時30分ころ、C看護師がAの様子をみると、Aは口角に泡沫状の唾液を出している状態で、呼吸は規則的だがやや浅くて速い状態にあり、脈は触れていたため、Aの左側臥位をさらに深くした。
午後1時45分ころ、C看護師がAの様子をみると、Aは全身チアノーゼ、瞳孔散大で呼吸、心音ともになく、頸動脈も触れない状態になっていた。医師らが直ちにAに蘇生術を施行し、他院に救急車で転送したが、Aは回復することなく、午後2時20分ころ死亡が確認された。
Aの遺族(妻子と両親)が、医療法人Yに対し、診療契約上の債務不履行ないし不法行為の損害賠償請求権に基づき、訴訟を提起した。
第一審はAの死因が舌根沈下による窒息死であると断定するに足りる証拠はなく、急性心筋梗塞を発症して心原性ショックに陥り死亡するに至った可能性が高いと判断した。かりに、Aの死因が舌根沈下によるものだとしても、Yは舌根沈下による窒息を予測できなかったとして、鎮静剤注射後の経過観察義務違反を否定し、遺族の請求を棄却した。
そして、遺族は判決を不服として東京高等裁判所に控訴した。
(損害賠償請求額)
遺族合計8614万9822円
(内訳:逸失利益5514万9822円+遺族の慰謝料3100万円(患者の配偶者1000万円+子供3人各500万円+両親各300万円))
(判決による請求認容額)
遺族合計2820万6651円
(内訳:逸失利益1420万6651円+遺族の慰謝料1400万円(患者の配偶者600万円+子供3人各200万円+両親各100万円))
(裁判所の判断)
患者Aの死因
控訴審の裁判所は、第一審の判断と異なり、患者Aは、イソミタールの呼吸抑制作用とともに、睡眠が深くなったことに伴って舌根沈下を生じ、窒息死した蓋然性が極めて高いと認定しました。
薬剤投与上の注意義務の有無
医師は、使用量及び投与速度を超えないでイソミタールを投与したものであり、患者Aを入眠させて保護室に収容する処置を採るに至るまでのAの行動を考慮すると、医師の薬剤投与上の注意義務に違反があったということはできないとしました。
鎮静剤投与後の経過観察義務違反の有無
まず、(1)イソミタールの副作用として、特に静脈注射による投与の場合は、徐脈、低血圧等の循環抑制や呼吸抑制の生じる可能性があることは精神科医療従事者の常識に属すること、(2)Aは午後1時ころには、舌根沈下気味であったこと、また午後1時30分ころには、呼吸は規則的だがやや浅く速い状態であったこと、(3)Aは中等度以上の肥満で短頸であるため、深い睡眠状態で舌根沈下を生ずる可能性があることは、同医療従事者において予見することができたものと認定しました。その上で、午後1時ころ及び午後1時30分ころには、異常の徴候が観察されているのであるから、Aに対し強制入眠させて保護室収容の処遇を行ったY病院の保護室担当の職員としては、単にAを左側臥位にしたり、同臥位を深くするだけではなく、午後1時ころよりも呼吸状態が浅くて速い状態になっていることを確認した午後1時30分ころ以降は、上記の症状が完全に消失するまで、Aの全身状態、特に呼吸状態の改善を監視する義務があるとしました。
また、午後1時30分ころには、H医師の指示もあり、保護室担当のC看護師としては、この段階で更にAのバイタルチェックをし、担当医師に報告するとともに、Aの全身状態、特に呼吸状態の改善を十分監視する義務があると認定しました。
そして、確かに、当時の医学的知見として、イソミタールを静脈注射し、それによる呼吸抑制が約二時間後に遷延的に発生する例があるとは知られていなかったとしても、現に午後1時30分ころAに前記のような症状が見られ、約30分前とは呼吸状態に変化が生じている以上、可及的速やかに全身状態をチェックして、担当医にその症状の報告をするとともに、Aの呼吸状態の監視を継続すべきであったとしました。また、午後1時45分ころには、その後直ちに行われた心肺蘇生術によって既に救命できない状態になっていたことを考えると、そのころまで他の仕事に従事して、それで間に合うと思っていた保護室担当看護師の判断には、客観的に見ればAの身体状態の観察に誤りがあったものというべく、呼吸不全等の重大な結果発生の予見可能性がなかったとはいえない以上、Y病院の措置に経過観察義務違反があると判示しました。
そして、午後1時30分ころ又はそれに接近した時点でAのバイタルチェックを行い、その状態を医師に報告するとともに、同人の呼吸状態の監視を継続していたならば、Aの身体状態の変化に的確に対応することができ、Aが救命され得た蓋然性は極めて高かったものと推認することができるとしました。よって、経過観察義務違反とAの死亡の結果との間に相当因果関係を認め、Y医療法人に不法行為責任として損害賠償義務を認めました。