会長講演「行き当たりばったりのわが呼吸器外科診療」
要旨採録
名古屋大学大学院医学系研究科 呼吸器外科学 教授 横井香平
横井香平氏
東海、北陸、近畿、中国、四国の22府県に在籍する胸部外科医でつくる関西胸部外科学会(KTSA)は6月21、22の両日、'Philosophy, Art, Humanity'「学問、最高の技術、人間愛」をテーマに名古屋国際会議場で「第61回関西胸部外科学会学術集会」を開いた。同学会は心臓、呼吸器、食道の3分野で構成。会長の横井香平氏(名古屋大学大学院医学系研究科 呼吸器外科学 教授)は「行き当たりばったりのわが呼吸器外科診療」と題して会長講演を行い、外科医としての心構えや患者との向き合い方などを述べた。
鶴の一声で決まった呼吸器外科医の道
気心の知れた親しい医師から「こんなふざけた題名の会長講演は前代未聞だ」と注意された。しかし、自分の歩んできた道を顧(かえり)みると、実際、その通りだと改めて思ったので、そのまま使わせていただく。世の中には、自らの力で素晴らしい人生を切り開いていった人がいる。それに引き換え、私の人生にはほとんど主体性がなかったように思う。
多くの先生方と違い、私はこれまでたった4つの病院にしかお世話になっていない。初期研修を受けた名古屋掖済会病院、呼吸器外科と出合った国立がんセンター、呼吸器外科医として勤務した栃木県立がんセンター、そして現在の名古屋大学だ。そのほとんどが自ら手を挙げてというより、先方からのお声がけで縁ができたものだった。
最初のターニングポイントは国立がんセンターのレジデント面接試験であった。面接官の池田茂人先生から「君は何が見たいのかね」と聞かれたので「(消化器外科で)腹腔内しか経験がないので、横隔膜の上も見たい」と答えたら「じゃあ、君は肺だ」と言われた。反論などできないほどの大声で迫られたので、この道に入った。ところが、そこには世界有数の指導者がたくさんおられた。特に、肺がんの世界に携わるようになると、お一人お一人の偉大さが否応なく分かってきた。
レジデント2年目の1984年にカウンターパートの宮澤直人先生から「今度宇都宮にがんセンターができるから一緒に行かないか」と誘われた。そこで、栃木との縁ができた。この時も自分の強い意思が働いたかどうか分からない。結局、栃木で18年間過ごした。
「三顧の礼」で招かれた名古屋大学
その平穏な生活を破りに来られたのが、この講演の座長を務めておられる上田裕一先生だった。「名大の呼吸器外科を手伝って」と2度電話をいただいたが、いずれも断った。しばらくして、上田先生の命を受けた碓氷章彦先生がわざわざ栃木まで来られて「ボランティアだと思って」と懇願された。最終的には国立がんセンターでお世話になった末舛恵一先生の「人は請われたら行くものだよ」という言葉に背中を押されて心を決めた。
『三国志』で有名な軍師、諸葛孔明を劉備玄徳が3回訪ね、最終的に蜀の宰相に迎え入れたという故事がある。私は決してそれを真似ようとしたのではないが、結果的にそのようなことになってしまった。
同年代の先生方からもさまざまな仕事を与えていただいた。それらは自分だけでは到底できないものばかりで、今も大きな宝になっている。九州がんセンターの一瀬幸人先生には2つの事業を依頼された。「肺癌取扱い規約第7版の手術記載」の作成と「肺癌登録合同委員会」の委員長就任である。特に後者では「第5次事業の論文化」「参加学会の増加」「胸腺腫瘍・悪性中皮腫例の登録事業」などの重い仕事をさせていただいた。
近畿大学の光冨徹哉先生からは肺癌診療ガイドラインの作成を命じられ、わが国で初めて胸腺腫瘍の診療ガイドラインを作らせていただいた。岡山大学の三好新一郎先生からは「お前も少しは苦労しろよ」と、今回の会長に立候補するように勧められた。現日本胸部外科学会理事長の大北裕先生からは理事会前日の夕方、電話で「副理事長やってくれる?」と非常に軽やかに誘われ、現在に至っている。
出会った患者さんを治す強い思い
これまでに関わった印象的な臨床例をいくつかご紹介したい。いずれも、出会った患者さんを治すという強い思いがあった。
まず、栃木県立がんセンター時代の1987年、50歳男性の左肺下葉原発扁平上皮癌で、大動脈浸潤が疑われた。浸潤があれば大動脈合併切除を計画しようと考えた。しかし、当時のがんセンターには心臓外科医が不在であったため、術前に診断をつけて治療方針を決めなくては動けなかった。
そこで、人工的に気胸を作ってCTで診断する方法を考え付いた。結果的に、腫瘍は大動脈からきれいに離れ、下葉切除で完全に切除できた。この方法は、大動脈のような縦隔浸潤でも、胸壁浸潤でもうまく診断できた。そこで、当時発表した論文では「気胸CTは、より適切な治療法の選択と手術の計画に多くの情報を与えてくれる」と記した。
1988年、肺癌の胸膜播種が認められる44歳女性に右肺上葉切除術+縦郭リンパ節郭清を行ったところ、術後に乳び胸が発生したため再手術した。その時点で縦郭リンパ節転移がないことが分かっていたので、播種巣ごと肺を全摘(胸膜肺全摘術)した。古くは膿胸の手術として、最近では悪性胸膜中皮腫の手術として行われている。この方は術後28年、再発なく現在も元気で過ごしておられる。
同じ年に経験した胸腺腫の胸膜播種の症例では、見るからに外科的に治すのは難しいと判断し、化学療法を探した。胸腺腫は抗がん剤の感受性が良いとされていたからだ。しかし、当時は適当なレジメンがなかった。そこで自分で作ることにした。使用する薬剤の頭文字を綴って「CAMP療法」と名付けた。現在でも使っているし、他施設でも少しずつ使っていただいている。
そして、その後胸腺腫の胸膜播種の患者さんで元気な方には、上記のCAMP療法後に胸膜肺全摘術を行うようになった。このような進行胸腺腫に対する集学的治療は適応症例が少ないため、2007年と2009年にようやく論文にまとめることができた。その中で「化学療法を含んだ集学的治療での胸膜肺全摘術は、胸腺腫胸膜蓮の局所コントロールを改善し、ひいては治癒に導く」と結論づけた。
「治癒」がゴールでない病態?
このように、私は「治癒」を得るために、常に外科治療で根治できる限界を求めてきた。しかし、最近は「治癒」がゴールではないと感じる患者さんに出会うことが多くなったような気がする。
そもそも「治癒」とはなんだろうか。例えば、ある疾患にかかり、治癒した後、何事もなく人生を終えるという人はまずいないと思う。極めて単純化すれば、仮にある疾患から逃れても、次の疾患が待ち構えている。それが治癒しても、また次の疾患に見舞われる。そういう状態が幾度となく繰り返され、やがて死に至るのが一般的だと思う。
だとすると、外科治療の役割はなんなのかという根本的な問いに向き合わねばならない。すると、根治ばかりでなく、QOLを維持した延命、緊急避難的治療という選択肢もある。
例えば、画像診断で6カ所に病変が認められた63歳の患者さんに対して、最も大きい腫瘍が存在した左下葉切除だけを行ったことがある。術後12年経ち、75歳の現在もこの患者さんは元気だ。手術時他に5病変もあり根治が不能と判断し、本人の希望もあってその後無治療のままここまできた。実際、12年間、何もしなかった。では、何かすればよかったのか。そして、今後どうしていけばよいのか。現時点ではよい答が見つかっていない。皆さんならどうされるだろうか。
治癒がゴールでない病態に超高齢者肺癌がある。2014年の胸部外科学会の報告によると肺癌切除術のうち、80歳以上が占める割合は12%に上る。つまり、10人に一人以上が80歳以上ということになる。肺癌登録事業からの報告では「80歳以上のステージ1の患者さんの長期成績は満足いくものであり、治療関連死も少ない」という。しかし、癌特異的生存率は良好なものの、全生存率は若い患者さんより明らかに不良である。要するに、超高齢者には他病死が多く、さらには術後のADLがあまり検討されていないことから、外科切除は本当に良いことをしているのだろうかという疑問に行き着く。
個別化医療から「個人別医療」へ
肺癌登録事業データでは、2004年の切除例よりも2010年の切除例のほうが、全病期で切除成績が改善されていることが分かる。これは取りも直さず医学・医療の進歩である。直近の2010年切除例のデータで初めてOS(全生存期間)とDFS(無病生存期間)との比較がなされた。その差を見ると、DFSよりOSのほうが10~20%良いことが分かる。これは、再発しても簡単には死に至らないことを意味する。すなわち、再発後の治療やケアが全生存期間を延長させているということだ。
実際、今日では、化学療法や分子標的薬、免疫チェックポイント阻害剤などなど、選択肢が増えている。切除することのみが大きな力を持っていた時代と異なり、進行肺癌における外科治療の役割が見直される可能性があるということだろう。
このように見てくると、外科治療の目的は治癒や根治だけではないように思われる。必要なのは、その人の人生のまさに今、現在においてお手伝いできることを見極めることだ。現在は多様なレベルの外科治療を選択できる。患者さんの肉体的、精神的、社会的側面に配慮することが大切だ。そのためには、今まで以上に医療者側の、総合的で高度な判断が求められるだろう。こうした流れを考えると、先行きは現在進行中の個別化医療から「個人別医療」に移行していく必要があると考える。
16世紀のフランスの外科医、アンブロワーズ・パレは「我包帯す、神、癒し賜う」「時に癒し、しばしば和らげ、常に慰む」などの言葉を残した。後者は「キュアオケージョナリー(cure occasionally)」の考え方だ。私はキュアオールウエイズ(cure always)を心がけ、治療選択してきた。外科医である前に「しばしば和らげ、常に慰む」が医者本来の仕事であろう。そして関わる患者さんの人生のすべてを支え続けるという意思がなければならないと思う。
誰でもができる手技を(補遺)
誤解を恐れずに言えば、名医はいてもよいが、神の手はいらない。多くの場合、そう呼ばれるのは外科医だ。「手」が手術や手技、技術を表すキーワードだからだろう。文字通り、神業(かみわざ)と思われるような素晴らしい技術を持つ人を第三者が敬意を込めて神の手と呼ぶのは自由だ。しかし、自らがそう名乗るのはできるだけ控えたほうがよいと思う。
神は唯一無二の存在だ。つまり、神の手と呼ばれる医者は、その人にしかできない技術を持っているということだ。しかし、その人もやがては第一線を退き、表舞台から姿を消す。そして死を迎える。その時をもって神業は途絶える。後の世代に伝えられない技術は本当に意味のあるものだろうか。
これを医療安全の視点で捉えると「その人にしかできない手術や手技、技術」は実は危険と背中合わせであることが分かる。手術中に予期せぬ状況が生じたとき、標準化した技術であれば、最悪の事態を招かずに済む可能性が高い。標準化した技術とは誰でもできるということだ。しかし、神の手にしかできない手術で同様の状況が生じたらお手上げである。私自身、私にしかできない手術や手技をいたずらに追求するのではなく、誰もができる確実で安全な技術を身につけることに努めてきた。
群大病院の一連の出来事を受けて、何例かの検証に関わった時にも同じ思いを抱いた。今日の医療安全は「人間は誰でもミスをする」という認識から始まるが、特に外科医の場合、そのミスを招かないための基本のキは誰もができる標準的な手技を身につけることに尽きると思う。