医師の問いかけに応じて身体の不調を訴える「ヒューマノイド(人)型ロボット」をこのほど、岐阜大学大学院医学系研究科の研究チームが開発した。医学生の実習に採り入れ、さまざまな経験を積ませることで現場での事故を未然に防ぐのが狙い。自分で考え、判断できる人材を育てるための「医療教育シアター」戦略の一環でもある。現在、最後のプログラム調整を行っており、早ければ、来年度のカリキュラムからお目見えする予定だ。同プロジェクトの指揮を執る高橋優三教授に開発の経緯などを聞いた。
石乃けい子さんで「医師の稽古」
「調子はいかがですか?」「まあまあです」「熱はありますか?」「少し熱っぽい感じです」――。岐阜大学医学部本館の一室に設けられた「バーチャル病院」の診察室での一コマである。問いかけるのは高橋教授。答えるのは「自由会話型エンジン」が組み込まれた、開発中の問診用シミュレーターだ。セクハラまがいの質問に対しては言いよどんだり、さらりと受け流したりする裏技も持つ。
小学校の教室ほどの広さの「バーチャル病院」には、このほかにも、医療教育の現場で使われることを想定したロボットやシミュレーション教材が実際の病室や検査室を模したスペースに所狭しと並べられてある。
その病院にこのほどデビューしたのが最新型のヒューマノイド型ロボット、石乃けい子さんだ。「医師の稽古」に役立てたいとの願いを込めて高橋教授が名付けた。インターネット上での検索を重ね、同姓同名がないことを確認した上で文字の組み合わせを決めたという念の入れようだ。それほど、石乃さんに寄せる期待が大きいということでもある。
医学教育改革を機に導入した能動型
同大医学部はこれまでにも、石乃さんの先輩格にあたる診断実習シミュレーター「慣れ初め(なれそめ)さん」や特定症例の教育訓練用の装置類を数多く開発している。後述するように、その目的は高橋教授の提唱する「医療教育シアター」の実現にある。石乃さんや、慣れ初めさんらには、そこで患者役を務め、有為の人材を世の中に送り出す手助けをする役割が与えられている。
高橋教授がシミュレーターやロボットの開発に取り組むことになった契機は同大学に赴任した時期に行われた「医学教育改革」の責任者に推されたことによる。12年前のことだ。高橋教授は、改革の基本的な方向性として「能動型」の仕組みを導入。「知識はあるが実地経験がない」という、これまでの教育方法の課題の抜本的な見直しに着手した。医学生には「知っているだけではなく、できることが大切」(高橋教授)だからだ。2001年には、日本初の「医学教育開発研究センター」を設立。能動型教育の実践として「患者ロボット」を主要な研究テーマの1つに選んだ。
医学生が知識を実践で検証する早道は数多くの患者に触れ、話を聞き、コミュニケーションを深めることだ。しかし、その分、患者の側には負担がかかる。いかにも初心者然とした医学生に身を委ねることにためらいを覚える人は少なくないだろう。微妙な判断を要する場面や体にメスを入れられるような場面ではなおさらだ。
その点、相手がロボットなら、繰り返し、何度でも同じことを聞いたり、試したりできる。たとえ、診断を誤ったり、処置を間違えたりしてもとがめられることはない。むしろ、それを貴重な経験として役立てられる。教育の場で十分な場数を踏んでおけば「自分で考え、判断し、適切な技能で医療ができる人材が育つ」(同)というわけだ。
肩関節の動きを再現し、神経症例を診断
2年前に誕生した慣れ初めさんが問診と触診の練習を目的としているのに対し、石乃さんは神経内科患者に特化した問診と視診の練習用に開発された。現在、重症筋無力症の症状がプログラミングされており、医師の問いかけに対して「まぶたが重いです」「手が肩より上に上がりません」などと答えながら、顔の表情を変えたり、肩を物憂げに動かして見せたりする。医師はその答えや動きを拠り所に適切な判断を下せるように訓練する。
例えば「力が入りません」という訴えと動きに対し、その原因が神経性のものか、筋肉に由来するものか、電解質の不足によるものかを判断するためには、どう聞けばよいのかといったシミュレーションができる。
身長157センチの成人女性を想定した石乃さんは自重を支えるだけで精一杯のため、シリコンカバーで覆われている頭部と両手部を除いて剥き出しのまま。「できる限り人間らしい雰囲気や仕草の臨場感を出すのに心を砕いた」(同)。例えば、これまでは遮断機のような単純な動きしかできなかったシミュレーターとは一線を画し、メカニズムや制御装置の改良で肩関節や肩甲骨の滑らかな動きを再現できるようにした。
現在は重症筋無力症の診断に限定した動きとシナリオが用意されているが、先行き、神経内科の扱うすべての症状に対応できるプログラムを組み込んでいく計画。また、決められた台詞の中から最適なものを選択して会話する現在の方式を音声認識システムの活用による自由会話方式に改める。冒頭で紹介した問診ロボットはその特化型だ。
高橋教授は「電卓の普及が数学の教え方を変えたように、ヒューマノイド型ロボットの普及が医学教育そのものを大きく変えることになるだろう」とバーチャルシステムの活用がもたらす教育環境の変化を予言する。
教えるより、気づかせる教育に一石
石乃さんをはじめとするヒューマノイド型ロボットを教育現場に採り入れる大きな狙いは医学生に的確な質問の仕方を教えることにある。
「高度に発達した医療現場や複雑化した社会構造の中で働く医療職を育てるのにシミュレーション教育は優れている。その上で、学習者が自分で考え、自分で試み、そこから何を学ぶべきかに気づき、勉強する場を提供することが大切」と高橋教授は強調する。
その「あるべき姿」として提唱しているのが「医療教育シアター」構想だ。同シアターでは、バーチャルのシミュレーションとロボット技術を駆使した医療教育を提案。同施設の活用で、医師の"ぶっつけ本番"を回避でき、名医がいなくても"名医並み"の教育をロボットに委ねられるのが利点だ。
その意味で、さまざまなシミュレーターやヒューマノイド型ロボットなどを活用した岐阜大学医学部の取り組みは医学教育に投じられた一石であるともいえよう。神経反射練習ロボット、除細動練習ロボット、電子解剖図鑑、立体精密画像、メディカルイラストなど、同シアターには「学ぶ医学」のための多彩なツールが揃えられている。
バーチャルシミュレーション教育で身に付けた技術は実際の医療現場におけるヒヤリハット対策や医療安全などを前進させる有効な力となるだろう。
プロフィール
高橋優三(たかはし・ゆうぞう)氏略歴
1974年4月奈良県立医科大学卒業、大手前病院内科研修。76年11月カリフォルニア大学リバーサイド校細胞生物学教室Postdoctral Fellow。81年2月奈良県立医科大学解剖学第二講座講師。83年12月ジョンホプキンス大学医学部皮膚科Visiting Professor。84年12月奈良県立医科大学寄生虫学講座助教授。89年1月ウイスコンシン医科大学皮膚科Visiting Professor。92年12月岐阜大学医学部寄生虫学講座教授、2001年4月同大学医学教育開発研究センター長、05年同大学大学院医学系研究科医科学専攻分子・構造学講座寄生虫分野教授。
主著に『基本人体寄生虫学』(医歯薬出版)、『スケルトン病院』(三恵社、編著)、『自己と種族保存のための仕組み』(三恵社、編著)など。
取材・企画:伊藤公一