東京大学教授(工学系研究科) 飯塚悦功氏
今回のスペシャリストは東京大学大学院工学系研究科教授の飯塚悦功氏。ご専門である工業分野における品質マネジメントの考えを、7~8年前から「医療の質」へ適用することに取り組まれ、最近では医療界との関わりも深い。品質管理学会会長でもある氏に、質とは何か、医療界の不思議、「医療質安全学」確立の必要性について伺った。
(取材日;平成16年10月12日)
-医療の安全を質の面からアプローチするに当たり、まず「質」をどのように捉えたらよいのでしょうか。
■質とは何か
私たちは、ある対象(人、製品、システム、サービスなど)に対してある種のニーズやこうあってほしいという期待を持ちます。そのニーズや期待に関係する、対象が持っている特性の全体像、それが「質」です。
例えば、自動車に対してこうあって欲しい、といろいろな人がいろいろなことを思います。早く走る、きちんと曲がる、ブレーキが効く、乗り心地が良い、運転しやすい、そういう特性の全体像が質です。
医療の場合でも、病気を早く治してほしい、注射が痛くない、看護師がやさしい、ベッドが寝やすいなど様々な期待やニーズがあり、これらに関係する特性の全体像が質となります。
テレビには、14インチ、携帯用、42インチ液晶、60インチプラズマディスプレイ、などがありますが、高級品イコール質が良いという訳ではありません。どのようなシチュエーションで使うかによります。3畳の部屋で60インチのテレビは見られません。目的に合っているか、欲しいと思っていることにどれぐらいフィットしているか、あくまでも受け取り側である顧客が、質の良し悪しを決定するのです。
医療機関に行く人は、基本的に病気を治してほしいと思っています。医療過誤に遭いたい、命を落としたいとは思っていません。自動車が早く走れても、それが安全でなくては意味がありません。こう考えると、常に、あらゆるものに関して、質の最も基本になるのは安全といえます。
-工学をバックグランドにお持ちになる先生の目から見た、医療界の問題点は何でしょうか。
■品質専門家から見た医療界の不思議
産業界での質に関わる常識に照らして不思議に思ったことがあります。
(第一;「質」概念の希薄さ)
品質を決めるのはサービスの受け取り手、顧客です。医療では患者やその家族、代理人になります。良し悪しは顧客(患者)が決めることです。患者が本当は何を望んでいるのかということをきちんと考えなければいけません。しかし、顧客志向(患者中心)になっていません。
通常はビデオでも車でも質が良いものが売れますから、メーカは顧客が何を望んでいるかを一生懸命研究します。
車の顧客のほとんどは、車についての素人です。素人に、あれだけ難しいものを説明し、自社の製品が良いと思わせて、実際に良いものを提供するということを連綿とやってきています。このエンジンはこうなっていて燃費がいいですよ、などと説明しながら、どこをどう見なければいけないかを一生懸命教育します。そうしながらわかってもらい、本当に良いと思っているものをお勧めして買ってもらうということを実施してきています。だから売れるのです。
あらゆる製品について多かれ少なかれ言えることですが、「情報の非対称性」すなわち、提供する側が圧倒的にたくさんの情報を持っているということがあります。
特に医療の場合、患者は医療の技術的内容に関してほとんど情報を持っていません。医療提供側が圧倒的に強い立場にいて、そのことに驕ってしまっています。患者さんに理解してもらわなければ意味がない、というような謙虚さに欠けています。患者さんにわかってもらって、患者さんが本当に治って、自分が納得できる、それが本当に質の良い医療だという考え方が浸透していません。これが「質」概念の希薄さです。私のように工業の世界でやってきた人間から見ると非常に不思議な世界です。
(第二;個人的能力への依存)
医療は専門性が高いからかもしれませんが、それにしても少数の優れた人に頼りすぎています。医療に限らず、良い結果を得ようと思ったら、コアになる技術と、その技術を集団、組織で活用していくというシステム、マネジメントが重要です。それがなかなか理解されていません。「マネジメントなんて軽薄なことをやっていないで、医師としての腕を磨きなさい、看護師としての腕を磨きなさい」という人が結構多く、標準化ということも嫌います。
標準化とは、ばかげたことで人を縛ることではありません。経験をもとに、良いということがわかったものや方法を採用していくことです。それによって、誰かが見つけた良い方法を皆が使えるようになり、組織で仕事が出来るようになります。すると、余計なことを考えなくてすみますから、仕事の質が上がるし効率も良くなります。
「そんな委員会を作って会議なんて開いてないで、注射の仕方でも勉強しなさい、薬の名前でも覚えなさい」と言うのも、一理ありますが、良いということが分かっている確立した技術を皆で使っていくための仕組みも必要です。
ひとりで物は出来ません。技術だけあっても技術は生かせません。社員がどんなに立派な論文を書いても、良い製品を作れない会社はいくらでもあります。技術的にわかっていてもそれが実現できない会社もいくらでもあります。ひとりの人が優れていても、その人の技術だけで大勢の人は引っ張れません。
物を作るときには、何千人、何万人という人間が関わります。リーダーシップ、人間的魅力によって引っ張る、そういうマネジメントが重要だということは、産業界では当たり前です。社長1人変わっただけで、ガラッと雰囲気が変わってしまいます。
例えば、日産のゴーン氏は車の設計が上手な訳ではありません。日産が持っている技術力、人の能力を引き出すようなマネジメント能力、価値観を共有させてこれでいくぞと先に進めていくような力があったのです。
様々な職種の人がいる医療機関の中で、個人の能力に依存するのには限界があります。皆で力を結集するというマネジメントが重要です。
(第三;技術普遍化技術の軽視)
「技術普遍化技術」とは、目的達成のためにどうすればよいかわかっていること(技術)を誰でも自然体で実施する(普遍化)ための方法論(技術)のことです。技術的にどうすればよいかわかっていることを間違いなくやる、このことの難しさ、重要さがわかっていません。1,000例に1例の難しい病気を治すような最先端の医療技術も重要ですが、ごく普通の病気を1例もミスがないように確実に快復させる、ぶれない技術こそが重要だと思います。
産業界では、ミスやバラツキを無くすために、こんなことまでと思うくらい細かいところまで仕組みを作り、人を訓練して教えこんでいます。こうした側面を重視しない医療界は、当たり前のことを綱渡りで実施していると言ってもよいと思います。
(第四;インセンティブのない世界)
これは医療界への一種の同情です。普通は良い製品を出すと、売れて儲かり利益が出ます。経済的に報われる構造になっています。
しかし、医療界はそのような市場原理が働きにくい分野です。その対策のひとつは良いものが売れること、もうひとつは情報開示です。例えば、医師の手術成績などを公開すべきです。それで良い悪いという評判が見えてくると、患者は良い病院、良い先生を選ぶようになります。良いものが報われる構造になります。しかし現在、医療機関は自由に宣伝できないことになっています。ホームページの公開がギリギリのところです。これほど、良いことをやっても報われない、インセンティブの働かない業界は珍しいと思います。
-こうした問題点を抱えた医療界に、今、必要なものは何でしょうか。
■「医療質安全学」確立の必要性~会員へのメッセージ~
20年ほど前(1980年代半ば)、中国で開催された品質管理シンポジウムに参加したときのことです。その中で、いきなりパネル討論会のパネリストに呼ばれました。1980年代半ばといえば、日本の製品の品質がものすごく良い頃、一方の中国には質の概念が全くなかった頃です。
フロアーとの質疑応答の中で「日本の製品の品質はなぜ良いのですか?」と質問されました。そこで「顧客の品質意識が高いからです」と言いました。するとパネリストの1人が「では、顧客の品質意識を高めるにはどうしたらよいのですか?」と聞いてきましたので、「良いものがあることを知らせることです。自分の世界だけで見ていたらわかりません。他がどうなっているか知ることです」と答えました。
質や安全を何とかしたいと思った時に、そういうことを動かしていくのは、顧客です。医療の質や安全を高めるために最も動かなければならないのは、患者です。そして患者を動かしていくのに必要なのはマスコミです。世論を作らなければいけません。新聞、テレビなど様々な組織が、国民、患者予備軍に対して、何が起きているか、どういう考えを持たなければいけないか、もっと多くの情報を流さなければいけません。
こうした状況にある医療界において、良質で安全な社会にするための正しい世論や価値観の形成のために、「医療質安全学」という学を確立し、学会を設立すべきだと思います。医療安全だけでは狭いので、質と一緒にした方がいいと思います。ただ専門家がいません。また、学会を作ることへの理解が広まっているとも思えません。どうするか、これから考えていこうと思っています。
このネットワークの会員の方が、医療の安全や質に関して、専門家として何らかの見識を持っているのなら、この会を、自分が得をするとか、自分がすぐ使える情報を得ようとか、そういうものと思って欲しくありません。医療の安全や質に関して、社会の皆が知るという状況を作りだし、社会全体のレベルを上げていくことが必要だと思っていただきたいのです。自分たちが何を獲得するかではなく、社会に対して何を訴えていくかです。そういう社会を作っていかなければ、自分自身がレベルアップできません。
日本の品質の良い製品分野の人たちが誰に育てられたかというと、顧客に育てられたのです。顧客がうるさくて厳しいから、一生懸命頑張り、技術的にいろいろ開発し、それによって自分たち自身も強くなってきました。
そうでない状況にある典型が医療ではないでしょうか。医療従事者は、医療の受益者である国民にもっと知らせなくてはいけません。そうしないと自分たちも堕落し、シュリンクしていきます。本当に正しい、質の高い、良い医療を目指していく状況を作らなければ、提供側として恥ずかしいことだと思います。このようなネットワークを作っているなら、そういう社会を作っていくために、一国民として、一専門家として出来ることをやってほしいと思います。そして、ある種の考え方を持って、使命感や正義感に燃えて、ボランタリー精神で社会を変えていくことを目指して欲しいと思います。
一向に減らない医療事故報道。医療現場は世間の風当たりの強さを感じているかもしれない。しかし、たとえ医療関係者にとっては厳しい世論であっても、それは医療のレベル、すなわち社会全体のレベルを上げる原動力と受け止めよう。
医療訴訟が増えた原因のひとつとして、患者の権利意識の向上が挙げられている。顧客である患者の要求が高まってきている今こそが、医療のレベルを高める好機と考えなければならない。