ある新聞に、医療職の「行ったきり現象」が取り上げられていた。投薬の準備中に、上司から急ぎの書類の作成を言いつけられるなどの業務中断により、最初にとりかかっていた仕事を忘れてしまうというものだ。医療事故にもつながりかねない問題だけに、いかに業務中断を減らすかは課題の1つでもある。その対策に乗り出した、前橋赤十字病院(群馬県前橋市、592床)の取り組みを取材した。
インシデントを引き起こす作業の中断
ナースステーションの一角。作業台の上には、点滴と注射のための薬剤が置いてある。その脇に、看護師の名前が書かれた黄色のカードが添えられている。
「これは、業務を中断していることを示すカードなんです」というのは、前橋赤十字病院看護部の副部長、前田陽子さんだ。
同院の看護部は、2003年7月からこの「業務中断カード」(通称、イエローカード)を導入した。作業の途中で看護師がその場を離れなければならない場合に、カードを置くことで業務中断中であることを知らしめるものだ。本人と周囲の注意を喚起し、誰がその業務を行っているのか、責任の所在を明らかにする目的がある。
「注射や点滴の準備中にナースコールが鳴り、患者のもとへ駆けつけたり、医師や同僚などから別の業務を依頼されて作業を中断することは多い。常に優先順位を見極めながら業務を行っているものの、1つの業務をし終えないうちに別の業務が重なり、その過程でついうっかり忘れてしまう場合もある。特に人員配置の少ない夜間は、1人の看護師が何役もこなさなければならないだけに、業務中断への対策が求められていた」と、前田さんはイエローカードを使用するようになった経緯をこう話す。
実際に、同院における誤注射や誤薬のインシデントレポートを分析してみると、業務中断が原因とみられるものが少なくなかった。取りかかり中の業務が気になり、医師からの指示を正確に受け止めていなかったり、ダブルチェックの最中に別の業務を言い渡されることによって、インシデントが起きていた。
また、ある看護師が点滴の準備中に別の業務でその場を離れ、いざ戻ってみたら、別の看護師が気を利かせて点滴のセットが終了していたというケースもあった。その結果、本来は点滴ボトルに入れるべき薬剤が入っていなかったというインシデントもあった。点滴をセットする際には指示書と突き合わせて行うが、この場合は最初の看護師だけにしかわからない指示内容があったため、こうした事態に陥った。
業務中断が原因で起こるインシデントは、杏林大学保健学部教授の川村治子さんが1999年度の厚生科学研究費で行った「看護のヒヤリ・ハット事例の分析」でも指摘されている。
注射準備や実施業務の途中で、突発的事項が発生したり、看護業務以外(電話など事務業務)による中断によってインシデントが発生していることが明らかになっている。
業務中断によるインシデントをいかに減らすか。また、1人の看護師が責任を持って業務をし終えるような環境づくりをどう作るかは、前橋赤十字病院でも大きな課題の1つだった。
責任感と他者への関心の高まり
その対策として考えられたのが、イエローカードだ。業務途中であることを視覚に訴えて、誰の目にもそれがわかるようにしようと導入された。
カードの大きさや色、形などの決定にあたっては、看護師にアンケート調査を実施した。目立ちやすい色と、制服のポケットに入る、邪魔にならない程度の大きさがポイントとなった。
その結果、5センチ×11センチの大きさの、黄色いカードが出来上がった。素材はプラスチック製材。サッカーで使われているイエローカードがヒントになったという。また、カードには責任の所在を明らかにするため、看護師の名前を記したシールも張ることにした。1枚あたりの費用は70円程度で済んだ。
使い方は簡単だ。業務の中断でその場を離れなければならない場合にカードを置く。看護師は後で必ずカードを置いた場所に戻り、その業務を完了させればよい。カードは1人あたり2枚支給されている。
イエローカードの導入から半年以上が経過したが、少しずつ変化も表れ始めた。長時間カードが放置してあれば、それに気づいた看護師が注意を促す場面が見受けられるようになってきた。以前ならば、何となく気になっていても声をかけにくかったが、カードという目に見えるものがあることで、互いの業務を検証し合えるような環境が整いつつあるようだ。
「置いてあるカードの枚数が2枚になると、看護師は『恥ずかしい』と思うようになってきた。個々人の業務に対する責任感も高まりつつあるようです」と、看護部長の牧野協子さんは言う。
この4月からは、看護部だけでなく、イエローカードが病院の全職種に導入されるようになった。他部署の職員が看護部の取り組みを見て、「自分達も使いたい」と申し出があったのがきっかけだ。書類の作成中に席を外す場合や、かかってきた電話の呼び出しをしている最中にカードを置くなど、使い方も広がりを見せているという。行ったきり現象の解決策の1つとして参考になる。
点滴と注射の準備途中であることを示すイエローカード。
職員1人あたり2枚支給されており、何らかの理由で作業を中断する場合には、
必ずこのカードを置いて席を外す。
後で必ず戻り、業務を完了させなければならない。
前方左側が、前橋赤十字病院看護部長の牧野協子さん。イエローカードの発案者でもある。
その右が看護副部長の前田陽子さん。3月まで同院の医療安全推進担当者だった。
後方左側が、医療の質管理課主任の菊地弘樹さん。この課も医療安全に関する業務を担う。
その右が看護師長の内田良子さん。4月から医療安全推進担当者となった。